ページID:100497更新日:2021年7月14日

ここから本文です。

遺跡トピックスNO.524「東河原遺跡の花粉化石と綿」

 

0039国指定史跡甲府城跡-石垣-

0043指定史跡甲府城跡-甲府城発掘展-

0069指定史跡甲府城跡-金箔瓦-

0119指定史跡甲府城跡-石垣補修工事(H19)-

0124指定史跡甲府城跡-稲荷櫓-

0127指定史跡甲府城跡-整備された城跡-

0129指定史跡甲府城跡-道路の下から追手門-

0141指定史跡甲府城跡-滴水瓦-

0146指定史跡甲府城跡-石垣補修工事(H20)-

0156指定史跡甲府城跡-石垣補修工事(H17)-

0161指定史跡甲府城跡-詰石-

0176指定史跡甲府城跡-矢穴-

0180指定史跡甲府城跡-甲府城展-

0183指定史跡甲府城跡-おもしろ講演会-

0189指定史跡甲府城跡-石垣石材の加工-

0198指定史跡甲府城跡-石垣補修工事(H21)-

0214指定史跡甲府城跡-石垣補修工事と石工技術の体験-

0225指定史跡甲府城跡-「昔覚ゆる甲府城-築城技術と甲州石工文化-」展の開催-

0232指定史跡甲府城跡-「昔覚ゆる甲府城-築城技術と甲州石工文化-」展の開催-

0244指定史跡甲府城跡-鉄門の再確認調査-

0257指定史跡甲府城跡-野面積み-

0261指定史跡甲府城跡-鉄門の石垣-

0278指定史跡甲府城跡-鉄門復元事業-

0283指定史跡甲府城跡-「昔覚ゆる甲府城展」の開催-

0285指定史跡甲府城跡-狭間-

0306指定史跡甲府城跡-お城の排水施設「暗渠」-

0295指定史跡甲府城跡-ひらけ!玉手箱-

0297指定史跡甲府城跡-石工道具-

0317指定史跡甲府城跡-慶長一分金-

0329指定史跡甲府城跡-数寄屋曲輪の地鎮祭-

0332指定史跡甲府城跡-発掘された甲府の城下町展-

0345指定史跡甲府城跡-「ひらけ!玉手箱~よみがえる鯱」展の開催-

0364指定史跡甲府城跡-石垣補修工事-

0369指定史跡甲府城跡-発掘された甲府の城下町~武田氏館と城下町-

0370指定史跡甲府城跡-鉄門の活用-鉄門イベント-

0378指定史跡甲府城跡-輪宝-

0389指定史跡甲府城跡-石垣-

0397指定史跡甲府城跡-石切場跡-

0403指定史跡甲府城跡-石垣-

0408指定史跡甲府城跡-石垣-

0412指定史跡甲府城跡-石垣の積み方-

0416指定史跡甲府城跡-本丸-

0418指定史跡甲府城跡-石垣の切れ目-

0420指定史跡甲府城跡-鏡石-

0249甲府城跡-県庁構内の遺跡-

0352甲府城跡-石垣普請-

0362甲府城跡-県庁構内(駐輪場)発掘調査速報-

0367甲府城跡-県庁構内(委員会室棟)発掘調査速報-

0456甲府城跡-山梨県庁の地下に眠る甲府城の遺構-

0487甲府城跡-石垣の移築復元-

0490甲府城跡-山梨県庁内に眠る敷石遺構-

0496甲府城跡-甲府城の追手門-

0506甲府城跡-稲荷櫓常設展の一部リニューアル-

0512国指定史跡甲府城跡ー浅野家金箔瓦ー

0523国指定史跡甲府城跡ー築城期の瓦2.「平瓦」ー

 

   

綿と世界と日本

 

 綿は、糸や布の原材料として栽培される。辞典的ではあるが、熱帯~亜熱帯地域に野生種がみられ、日本には自生していない。
世界的にみると、諸説あるが約7~8000年前にはインド大陸、南米大陸で栽培が始まり、長い時間をかけて世界各地に伝播。18世紀の産業革命以降に世界的な主要繊維となった。
では、日本と綿の関係について。
日本に綿が定着するのは意外と遅い。『類聚国史』(892年)に綿の伝播に関する有名な記述がある。
延暦18年(799年)のある日。袈裟風装束で、弦琴と綿の種が入った壷を抱えたインド人青年が、三河国(愛知県)に漂着した。これが日本と綿の最初の出会いとなる。
インド人青年はその後、飛鳥川原寺に住み、綿の種は紀伊、河内、淡路、讃岐、阿波、伊予、土佐、筑前などで栽培されるが、「殆ど絶えん」『中河内郡誌』(1923年)という。
その後、時代はグッと進み、15世紀中頃。ポルトガルから綿の種を得て、今度は栽培の定着化に成功して、五畿を中心に急速に伝播した。
やがて大阪、姫路、愛知などが綿の一大産地となり、戦前の日本は世界一の綿輸出国になる。

 No.524-1

   綿花(イメージ)

東河原遺跡の発掘調査

 さて、東河原遺跡は、旧山梨県立看護短期大学(甲府市池田一丁目6-1、現在の県立大学池田キャンパス)の建設に伴い、平成5年(1993)発掘調査された。
当時としては、県内では珍しい近世の水田遺跡の調査事例で、A、B地区で各1.~3.面、合計6面の耕作面を発掘調査した。
遺物は、江戸時代の小さい土器片を中心に354点。あとは延々畝や畦畔の遺構を掘り出す調査であった。
遺構は、A地区1.~2.面とB地区1.面の3面は、同じ規格の畝群(写真1.の細長い筋)。A地区3.面とB地区2.~3.面は、大人がひと跨ぎする大きさ程度の畦畔で区画された水田(写真2.の大きな区画)であった。
そして、土層堆積からは、名前の通り東側を流れる暴れ川「荒川」の氾濫を何度もう受けた厳しい自然環境(氾濫原)が観察でき、何度も川砂で埋まっても、めげずに水田を再開し続けた強い意志や、江戸時代の人々の逞しい生活が感じ取れる遺跡であった。

No.524-3

No.524-4

写真1.細長い畝(A区第1.面)

写真2.大きな畦畔畝(A区第1.面)

 

 

 水田遺跡であることの証明

 私は東京の生まれ育ちなので、農作業の経験がまるでない。
つまり田園風景しか知らず、「水田作りの技術(農業土木技術)」を知らない。
そんな私に、当時の上司は会うたびに「どうして東河原遺跡は水田遺構と判断できるのか」という質問を何度も投げかけてきた。新採用の私は考古学の言葉を使って、しっかり遺跡の評価を説明できなかった。
当時の私は、恐らく県外調査事例をパラパラめくり、先輩職員の意見、身近な村絵図、宮崎安貞『農業全書』(1697年)など手軽に入手できる情報だけで水田と決め込んでいたのだろう。目の前の遺構と向き合っていないことを、上司は見抜いていたに違いない。

考古学的な発掘調査で次々と畝や畦畔の調査が進むなか、依然として水田遺跡という確実な証拠が得られない。この解決のため実施されたのが土壌中に含まれる「花粉化石」を分析する科学的調査である。

 

大量のイネ科花粉・微量なワタ花粉の発見

 花粉化石の分析を22サンプル土壌で実施した。
その結果、一部のサンプルを除き、ほぼ全てから高い密度でイネ科の花粉が検出された。 
このことから東河原遺跡が水田遺跡であり、畝遺構も稲作に係る遺構として学会等で理解を得ることが出来たのである。
一方、花粉化石の分析で3サンプルからワタ属の花粉が極めて微量に検出された。
花粉は飛散するし流れもするため、東河原遺跡の性格を語れるほどの検出量ではない。しかし、山梨県と綿を結ぶ唯一の科学的証拠である。上司の許可を得て、少し綿の調べに出かけた。
No.524-2

 堆積状況と土壌サンプリング

 

綿と私

 江戸時代の甲斐(山梨県)を記録した『甲斐国志』(1814年)や『裏見寒話』(1752年)などの地誌類から、盆地西部(現在の南アルプス市)が綿栽培地であり、近世甲斐の特産と評価されていたことがわかる。
事実、旧甲西町などで綿栽培の足跡を捜し歩いていると、小学校低学年では「朝顔の観察」ではなく「綿の観察」が授業に組込まれている。早速、授業風景を見学させてもらった。
また、古代に漂着したインド人青年を祭る天竹(天竺)神社(愛知県西尾市)を訪問した際、偶然出会った氏子さんたちが、さまざまな資料を実見させてくれた。
なかでも驚いたのが、甲斐の綿栽培がとても活気ある産業であった歴史を承知していたり、山梨県の子どもたちが歌った民謡「綿打ちの歌」について、当時唯一の音源(NHKが戦後収録と記憶)を貴重気に聞かせてくれた。
歌詞から浮かぶ山梨県の綿打ち風景を愛知で感じると思いもよらなかった。
このようなことは机上の調査研究では体験できないし、歴史や文化財は地域を超えて多様な繋がりを持っていることを知ることが出来た。
そして、フィールド調査を通じ、外側から山梨県を見直すことの面白さと、調査研究の重要性をはじめて実感した。
 

 

 

 考古学と記録保存、これからのこと

 山梨県に戻り、改めて盆地西部は肥沃な砂礫質の扇状地で、水はけも良く、何より気温(日照時間)も高い熱帯植物の綿栽培に適した土地であること。農地が見当たらないほど綿栽培が盛んとなり、街道沿いには綿問屋や綿打ち家業が軒の並べ、裕福な生活をしていたという歴史風景を国道52号に立ってイメージすることが出来た。
各地の産地に負けないほど綿産業で繁栄した盆地西部の歴史。
埋蔵文化財だけでなく自然科学、民俗、地理、経済、産業など多様な分野と連携してパズルを完成させるよう、一つ一つ真実性のある歴史物語を生み出す。私たちは、こういった責任感ある面白い仕事をしているのです。

埋蔵文化財センターでは、消滅する埋蔵文化財をしっかり記録保存し、ゴージャスではない地味な「発掘調査報告書」を刊行しています。読み物としてはつまらないですが、得られた歴史の証拠を可能な限り掲載しています。
今回お話しした花粉化石や年代測定の結果など、肉眼では観察、記録できない自然科学分析の結果を全巻ではないですが掲載しています。
例えば、東河原遺跡であればワタの他に、アブラナ、ソバ、セリ、ヨモギ、タンポポ、シソ、マメなど身近な草木の花粉化石が検出されています。
調査風景の写真から東河原の田園風景をイメージしてください。そして、ちょっとだけ草木を付け足してください。少し明るい歴史景観が見えませんか。

私たち専門職員や研究者に限らず、考古学を勉強していなくても、いつでも誰でも調査研究したり、地域の歴史景観を復元したりできるよう様々な情報発信に取り組んでいます。
報告書は県内の図書館に蔵書されていますので、一度ご覧になってください。

No.524-5

  イネの花粉化石(『東河原遺跡』巻末より)

 

主要参考文献

『東河原遺跡』 1994年 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第95集 
山梨県教育委員会 山梨県厚生部
『類聚国史』 1979年 吉川弘文館
『甲斐国志』 1972年 雄山閣
『裏見寒話』甲斐叢書六巻 1974年 甲斐叢書刊行会
『中河内郡誌』 1972年 名著出版

 

次の遺跡トピックスへ遺跡トピックス一覧へ一つ前の遺跡トピックスへ

 

山梨県埋蔵文化財センタートップへ

このページに関するお問い合わせ先

山梨県観光文化・スポーツ部埋蔵文化財センター 
住所:〒400-1508 甲府市下曽根町923
電話番号:055(266)3016   ファクス番号:055(266)3882

同じカテゴリから探す

このページを見た人はこんなページも見ています

県の取り組み

pagetop