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遺跡トピックスNO.511泥めんこになった疫病退治のエキスパート

富士川町の遺跡

  • 0005鰍沢河岸跡-泥めんこ-
  • 0025鰍沢河岸跡-礎石建物跡・井戸-
  • 0027鰍沢河岸跡-石垣・粘土枠遺構-
  • 0030鰍沢河岸跡-口留番所跡-
  • 0035鰍沢河岸跡-道・区画-
  • 0047鰍沢河岸跡-胞衣壺-
  • 0048鰍沢河岸跡-磁器・泥めんこ-
  • 0068鰍沢河岸跡-文政の大火-
  • 0092鰍沢河岸跡-目薬瓶-
  • 0113鰍沢河岸跡-元禄一分判金-
  • 0117鰍沢河岸跡-文政の大火と磁器-
  • 0188鰍沢河岸跡-荷物置き場-
  • 0203鰍沢河岸跡-竹製の水道管-
  • 0208鰍沢河岸跡-陶器製湯たんぽ-
  • 0242鰍沢河岸跡-御蔵台-
  • 0270鰍沢河岸跡-うさぎ文様の茶碗-
  • 0351鰍沢河岸跡-お茶碗にみるものがたり-
  • 0359鰍沢河岸跡-統制番号製品-
  • 0015町屋口遺跡-水路・道路-
  • 0291町屋口遺跡-明治時代の磁器-
  • 0360町屋口遺跡-河岸お蔵道-
  • 0114青柳河岸跡-石垣-
  • 0158平野遺跡-焼失住居跡-
  • 0375鰍沢河岸跡-泥めんこ-
 

はじめに

鐘馗のどろめんこ

鰍沢河岸跡(かじかざわかしあと)で見つかった鐘馗:高さ1.91cm幅1.31cm奥行き0.4cm

鰍沢河岸跡では、様々な泥めんこが見つかっています。「福良雀(ふくらすずめ)」「節分のおかめ」「打ち出の小槌」「七福神」など縁起の良いものから、「金太郎」「鯉金(こいきん)」「大蛇と戦うスサノオ」などスーパーヒーローや力士などのスポーツ選手、動植物などさまざまなモチーフが用いられていて、子供の玩具の意味合いの強いものも多くありますが、玩具としてだけではない側面も持っていました。

 

スサノオ大蛇を退治するスサノオ

金太郎金太郎

今回は、鰍沢河岸跡で見つかった泥めんこから中国の疫病退治のエキスパート、端午の節句でも有名な鍾馗(しょうき)さんを取り上げます。

所在地:富士川町(旧鰍沢町)

時代:江戸時代~明治・大正時代

報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第148集1998(平成10年)刊ほか

調査機関:山梨県埋蔵文化財センター

なぜ鐘馗さんが疫病退治のエキスパートになったのか?

鍾馗が疫病退治のエキスパートになったと一般的に考えられているのは、こんなお話です。

-唐の玄宗がマラリアにかかり、悪鬼が宮中で暴れる悪夢に悩まされていましたが、ある時の夢の中で、鐘馗と名乗る巨漢が悪鬼を退治すると、玄宗の病気は平癒しました。玄宗は呉道玄(ごどうげん)に鐘馗の絵を描かせました。その後、鐘馗図を大晦日に臣下に下賜し、新年になると臣下は鐘馗図を門に貼り、邪気除けとするようになりました。-

というのが鐘馗伝説の大まかなあらすじです。

このお話しが流布することで、鐘馗さんは疫病退治のエキスパートとして魔除け、厄除けとして門に貼られることになりました。

日本での鐘馗さん

日本に入った時期は不明ですが、鍾馗さんは日本でもメジャーです。五月人形にするのは子どもの無病息災を祈ってのことですし、山王祭り、神田祭その他の山車の人形に鍾馗を使っています。

山梨では、早川町雨畑に、天明三年(1783)再建の鐘馗神社があります。勧請年月は不詳ですが、鐘馗を主神とした神社は全国的にも珍しいのではないでしょうか。

まとめ

江戸時代は、乳幼児の生存率が高くありませんでした。特にこうした魔除けや厄除けの意味合いをもつものを子どもたちの玩具のモチーフとすることで、子どもの無病息災への願いが見てとれるのではないでしょうか。

 

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蛇足

鐘馗さんの正体

鐘馗さんの伝説は、宋代以降、宋代の沈括(しんかつ)や明末清初の顧炎武(こえんぶ)など様々な史家に繰り返し否定されています。例えば、楊慎(ようしん1488-1559)は、

俗傳鐘馗於唐明皇之夢、非也。蓋唐人戯作鐘馗傳、虚構其事、如毛頴、陶泓之類耳。北史堯暄本名鐘葵、字辟邪、後世畫鐘葵於門、謂之辟邪、由此傳會也。宋宗愨妹名鐘葵、後世畫工作鐘馗嫁妹圖、由此傳會也。但葵馗二字異耳。又曰、終葵菜名。周礼考工記、大圭終葵首。疏齊人謂椎為終葵。

(読み下し)

俗傳の鐘馗於唐明皇之夢は非なり。けだし唐人鐘馗傳を戯作す。虚構の其事は、毛頴、陶泓の類ごとし。北史の堯暄(ぎょうけん)本名は鐘葵、字は辟邪、後世に門に鐘葵を畫し、これをいいて辟邪とするは、この伝会に由るなり。宋の宗愨(そうかく)の妹の名は鐘葵、後世鐘馗嫁妹圖を工作し畫するは、この伝会に由るなり。ただ、葵と馗の二字、異なるのみ。また、終葵は菜名という。周礼考工記、大圭は終葵に首す。注:齊人椎を終葵となすと謂う。

 

 

と述べており、玄宗の夢の話は戯作、つまり小説のようなものであるとし、鐘馗の辟邪の起源、京劇にもなった「鐘馗嫁妹」の起源は何か、鐘馗の字源は何かを説明しています。

 

考証学の始祖でもある顧炎武(1613-1682)は、その著書である日知録に

考工記、大圭三尺、杼上終葵首。礼記玉藻、終葵椎也。方言、齊人謂椎終葵。馬融廣成頌、揮終葵、揚玉斧。蓋古人以椎逐鬼、若大儺之為耳。今人於戸上畫鐘馗像、云唐時人能捕鬼者、玄宗嘗夢見之。事載沈存中補筆談、未必然也。

(読み下し)

考工記、大圭三尺杼上は終葵に首す。礼記玉藻、終葵は椎なり。方言(漢代の辞書)、齊人は椎を終葵という。馬融廣成頌、終葵を揮い、玉斧を揚げる。けだし古人椎を以て鬼を推う、大儺のため耳。今、人は戸上に鐘馗像を畫す、云唐時の人よく鬼を捕える者、玄宗嘗てこれを夢にる見。事、沈存中補筆談に載るも、未だ必すしも然らざるなり。

と書いていて、玄宗と鐘馗のお話は、沈括の穂筆談をとりあげて「いまだ必ずしも然らざるなり」としています。

趙翼(1727-1814)は、陔餘叢考(がいよそうこう)の中で、

鐘馗顧寧人謂:世所傳鐘馗,乃終葵之訛,其說本於楊用修、郎仁寶二人。仁寶《七修類稿》云:《宣和畫譜·釋道門》載六朝古碣得于墟墓間者,上有鐘馗二字,則非唐人可知。《北史》:魏堯暄本名鐘葵,字辟邪。意葵字傳訛,而捉鬼之說起于此也。用修《丹鉛雜錄》云:唐人戲作《鐘馗傳》,虛構其事如毛穎、陶泓之類也。蓋因堯鐘葵字辟邪,遂附會畫鐘葵于門,以為辟邪之具。又宗懿妹名鐘葵,後世因又有鐘馗嫁妹圖,但葵、馗二字異耳。此事見沈括《筆談》。皇中,金陵發一塚,有石志,乃宗愨母鄭夫人,宗愨有妹名鐘馗。《周禮·考工記》大圭「終葵首」注:齊人謂椎曰終葵,圭首六寸為椎,以下殺。《說文》:大圭長三尺,杼上終葵首,謂為椎于杼上,明無所屈也。《禮記·玉藻》「天子搢挺」注亦同云云。是用修之說,較仁寶更詳。則鐘馗由堯終葵字辟邪之訛固屬有因,而大圭之終葵何以轉為人名之終葵,則未見的義。顧寧人乃引馬融《廣成頌》「揮終葵,揚玉斧」,謂古人以椎逐鬼,如大儺之執戈揚盾。此說近之。蓋終葵本以逐鬼,後世以其有辟邪之用,遂取為人名,流傳既久,則又忘其為辟邪之物,而意其為逐鬼之人,乃附會為真有是食鬼之姓鐘名馗者耳。胡應麟《筆叢》、朱國楨《湧幢小品》亦引堯終葵字辟邪以為鐘馗本闢邪之物,然俱不如寧人引馬融頌之融貫也。至用修謂唐人戲作《鐘馗傳》,則不詳載在何書。

 

鐘馗は顧寧人(顧炎武)謂う:世のいわゆる傳鐘馗は,すなわち終葵の訛り。楊用修、郎仁寶の二人、その本(もと)を説く。仁寶(じんぽう)の七修類稿に云う:宣和畫譜·釋道門に載る六朝の古碣(石碑のこと)墟墓の間に得るは、上に鐘馗二字あり。則ち唐人の知るべきに非ず。北史:魏の堯暄、本名は鐘葵,字は辟邪。葵字の傳訛を意す。而るに鬼を捉えるの說は此れに也。用修の丹鉛雜錄に云う:唐人、鐘馗傳を戲作す。虛構其事は毛穎(筆のこと)、陶泓(すずりのこと)之類如くなり。蓋し、堯鐘葵字辟邪により、遂に門に鐘葵附會し畫すは、以って辟邪之具となす。また、宗懿の妹の名、鐘葵。後世因みて又鐘馗嫁妹圖あり。但し葵馗二字異なるのみ。此の事、沈括の筆談に見る。皇祐中,金陵發の一塚、石志あり。すなわち宗愨の母鄭夫人、宗愨妹ありて、名を鐘馗。周禮·考工記に大圭は「終葵首」注:齊人、椎を謂いて曰く終葵。圭首六寸を椎となす,以下殺(けずる)。說文、大圭長さ三尺,杼上は終葵首、謂いて杼上を椎と為す,明らかに屈する所無し也。禮記·玉藻「天子搢挺」の注に亦た同じく云云。是れ用修之說、較ぶるに仁寶は更に詳し。則ち鐘馗は堯終葵字辟邪の訛によりて、固より有因に属す。而るに大圭の終葵何を以ってか轉じて人名の終葵になるか則ち未だ的義を見ず。顧寧人乃ち馬融廣成頌を引て「終葵を揮い,玉斧を揚ぐ」謂いて古人椎を以て鬼を逐う,大儺の執戈揚盾のごとし。此の說之に近し。蓋し終葵、本は逐鬼を以てす。後世其の辟邪の用あるをもって,遂に取りて人名となす。,流傳既に久しく,則ち又た、其の辟邪之物と為すを忘らるる。而るに其の為逐鬼之人を意すは、乃ち附會為真に是の食鬼の姓を鐘、名を馗とする者有る耳。胡應麟の筆叢、朱國楨の湧幢小品を亦た引くに、堯終葵字辟邪を以って鐘馗と為すは、もとは闢邪の物なり。然るに俱もに寧人の馬融頌之融貫を引くの如からざる也。用修にいたりて謂うらくは、唐人鐘馗傳を戲作す。則ち何の書に載在するか詳かならず。

と顧炎武を一部支持しこれまでの鐘馗論をまとめています。

1.鐘馗は、辟邪(へきじゃ)の意味合いがあり、唐代以前にも人名でよく使われていた。

2.鐘馗は、終葵(しゅうき)が訛化(てんか)したものであり、終葵とは、椎(槌)のことである。

3.古代中国では、椎(槌)で鬼を追い払えると信じていた。

4.鐘馗伝は、原典がわからない物語である。

ことがわかります。つまり中国における土着の信仰から生まれたものが鐘馗さんだったのです。

 

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