トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0047 鰍沢河岸跡
ページID:4335更新日:2016年2月5日
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富士川町の遺跡
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川の港、鰍沢河岸跡(かじかざわかしあと)〔写真〕手前が国道52号、奥が富士川。中央の調査区内、★印は井戸 鰍沢河岸は、江戸時代に甲信地域の各地から集めた大量の年貢米を江戸へ運び出すために富士川沿いに開かれた、いわば川の港です。また塩をはじめとする様々なものを甲信地域に運び入れる役割をも果たしており、昭和はじめに身延線が甲府まで全線開通するまで大いに栄えた場所でした。発掘調査によって、その港を支えた米蔵、問屋や飲食店などが立ち並ぶ活気あふれる賑わいの風景が浮かび上がってきました。
所在地山梨県富士川町(旧鰍沢町)1374-5外(白子明神地区) 時代近世・近代 調査機関山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター 報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第148集1998(平成10)年刊行 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第224集2005(平成17)年刊行 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第238集2006(平成18)年刊行 何だろう?埋められた甕(かめ)と徳利(とっくり)〔写真〕胞衣壷(えなつぼ)が見つかったところ これは全体写真にある井戸(★印)のそばで、ぽつんとひとつ見つかった‘胞衣壷(えなつぼ)'です。写真中央の口だけ見えているのが甕(かめ)ですが、この中に胞衣(えな)が入れられたと思われます。また甕(かめ)の中の土を科学的に調べたところ、何か動物(人間を含めて)が入っていたのではないかということがわかっているので、胞衣(えな)が入っていた可能性も高くなります。
‘胞衣(えな)'とは?・・・胞衣(えな)とは出産時に赤ちゃんと共にでてくる胎盤(たいばん)やへその緒などのことです。今では出産は病院や助産院で行われ、胞衣(えな)もそこで処理されていますが、その昔それぞれの家で出産していた頃は、子供と一緒に出てきた胞衣(えな)も分身のように大事に扱われており、家の近くに埋めて子供が丈夫に育ちますように…と願ったそうです。子供の育ちが悪いと「胞衣(えな)の埋め場所が悪かった」といって埋め直すこともあったようです。 〔写真〕見つかった甕(かめ)、徳利(とっくり)を掘り出したら、こんな感じでした。
山梨県では明治29年(1896)に「胞衣(えな)などは家や井戸から離れた場所に深く埋めること」というお達しが出されており、このことや胞衣壷(えなつぼ)が見つかった状況を考え合わせると、明治はじめ~明治29年までの間くらいに埋められたのではないでしょうか。
甕(かめ)の両脇には梅の文様が入った徳利2本が立てられていますが、この徳利(とっくり)はレンガのような色をした独特の土で作られているので、その特徴から山梨県や長野県で作られたものかも知れません。ちなみに山梨県内で明治時代~大正時代の頃に作られた焼き物としては、小倉(こごえ)焼(北杜市須玉町)や秋山焼(南アルプス市秋山)などが知られています。 今も昔も変わらぬ親心胞衣(えな)を埋める時に、その横に瓶(びん)や徳利(とっくり)を立てるのは母乳がよく出るようにとの願いが込められていたようです。また地域によっては男の子なら筆や墨を、女の子なら針や糸を・・・というようにその上達を願って胞衣(えな)と一緒に納められたこともありました。子を思う親の気持ちは今も昔も変わらないものなんですね。当時の活気あふれる鰍沢の街で、そこに暮らす人々の日々の暮らしを垣間見た気がします。 |