四ツ塚古墳群について
四ツ塚古墳群は、笛吹市一宮町にある今から1300~1400年ほど前の古墳群です。1981年の中央自動車道建設工事(一次調査)と、1995年の「金川の森」公園造成工事(二次調査)に伴って、合計27基の古墳が発掘調査されました。場所は、一宮・御坂インターチェンジ付近にあり、現在でも金川の森公園内に、発掘調査後復元整備された古墳と、未調査の古墳を確認することができます。
これほどの数の群集墳が発掘調査された事例は、山梨では多くありません。被葬者が埋葬された部屋(横穴式石室)の様子や、古墳の造り方が分かる貴重な調査事例となっています。
遺跡トピックスでは、No.0020とNo.0235でも四ツ塚古墳群を紹介しています。
所 在 地 笛吹市一宮町国分
時 代 古墳時代後期~終末期(1300~1400年前)
報 告 書 『四ツ塚古墳群』山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第11集(1985)
『南西田遺跡・西林遺跡・四ツ塚古墳群』 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第162集(1999)
調査機関 山梨県埋蔵文化財センター
写真:センター所蔵の調査風景写真(1981年)。ちょうど桃の花が咲く頃に発掘調査をしていたのが分かる写真です。
古墳に供えられる土器
古墳は、その地で権力のあった首長が眠るお墓です。そのお墓の中には、お供え物が亡きがらの近くに置かれます。例えば、首長の偉大さを示す刀剣などの武器や、馬に装着する馬具などが置かれます(この行為を”副葬”といいます)。古墳を発掘調査していると、同じように、お供え物としての土器が出土することがあります。しかし、山梨県では発掘調査が行われた古墳が少ないため、実は古墳から出土する土器について、詳しいことはよく分かっていません。今回のトピックスでは、四ツ塚古墳群の調査事例から考えてみます。
四ツ塚2号墳
上図は、四ツ塚2号墳の遺物の出土状況です。玄室(首長が埋葬される場所)の奥の方に、矢尻や刀のつばなどの武具があり、土器は入り口の近くから出土しています。
土器は須恵器が多く、坏が身と蓋のセットであるほか、首の長い瓶や大きな甕、注ぎ口のあるハソウなどが出土しています。須恵器の種類ごとに、まとまって出土しているため、最初からそこに置いたものと思われます。大きな甕は、東日本では横穴式石室の入り口付近に置かれることが多いようです。お水やお酒をいれていたのかもしれません。2号墳では亡きがらの付近には土器が置かれることなく、入り口の近くでお祀りをしていた痕跡が分かります。
四ツ塚6号墳
上図は、四ツ塚6号墳の遺物の出土状況です。武器などはほとんど出土していませんが、須恵器や土師器がいくつか出土しています。須恵器の多くは、入り口の近くに集まっていますが、大きな甕は見られません。玄室の奥のほうには、土師器の坏形土器が2つ見つかりました。
お墓の中に土器をお供えする行為について
四ツ塚古墳群のうち、2号墳と6号墳では遺物の出土する状況が異なることがわかります。6号墳は、金属製の武器などはほとんど出土していませんが、玄室の中から土器が2点出土しました。玄室の中(亡きがらのそば)に土器をお供えする行為は、横穴式石室が普及するより前の時代では、ほとんどみられないものでした。この行為は、「黄泉(ヨミ)の国」神話にある「ヨモツヘグイ」と関連しているのではないかという説があります。「黄泉の国」を横穴式石室の内部に見立てて、死者に食べ物を献げた(黄泉の国のものを食べると、現世には戻れないから)とか、もう死者は現世のものを食べられませんよ(還ってこないで)という意味でカラの器をお供えをしたなど、考え方は研究者によって分かれています。
四ツ塚6号墳の玄室内から出土した土器も、こうした思想をもとにお供えされた可能性はあると思います。ただし、2号墳のような例もあるので、一概には言えません。山梨県の他の古墳群でも研究をして、県内全体で考えるべき課題の一つです。
四ツ塚古墳群は、金川の森公園内で見学することができますので、ぜひ脚を運んでみてください。
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