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ページID:106920更新日:2023年2月9日

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遺跡トピックス 

 

山梨県内の遺跡分布

 周囲を山地に囲まれた山梨県では、「可住面積(総面積-森林・湖沼面積)」は約21%程度しかなく、居住域として利用されている土地が限られていることを示しています。遺跡に目を向けてみると、異なる時代の集落(遺跡)が継続的もしくは断続的に営まれている事例が多くあり、現代の可住面積と同じように、居住に適した土地が限られていたことを示しています。

 下図は、甲府盆地低地部に当たる中央市、昭和町周辺の地図です。図1は遺跡の分布図(遺跡:オレンジ色の範囲)に微高地と呼ばれる小高い地形に分類される地形範囲(緑色で示した範囲)を重ねたものです。この図では、赤点線で示した範囲で明確に微高地と遺跡が重なっているものが多く見られます。また、図2は明治時代に作成された測量図に微高地の範囲(緑色で示した範囲)を重ねたものです。こちらの図では、明確に微高地の範囲に明治時代の村落範囲が合致しています。このことから、釜無川や笛吹川の河川氾濫が多い地域では、少しでも高い場所を選んで遺跡が作られていたことが分かります。

ricchi図1 遺跡分布図

sonraku図2 村落分布図

 

学校用地と遺跡の合致

 災害や気候条件を前提とした遺跡の土地選びは、遺跡だけでは無く治水技術が向上した近現代社会において、別の形で見ることができます。それは、学校用地と遺跡立地の関係です。

 日本における学校建設のはじまりは、明治5年の「学生頒布」に始まり、山梨県では、初代県令の藤村紫朗が推進しました。その施策として、以下の文書を発出して学校用地の選定を行っています。

 明治6年3月30日 各区長戸長あて「小学校設立ニ際シ各区々戸長ニ達スル書」・・・「一区一校」を目的として小学校建設推進を要請

 明治7年10月12日 各区長戸長あて 小学校用地になり得る土地を具申させる。その条件は、「官有地すなわち、寺社上地、無税地等五〇〇坪以内の土地」(山梨県教育史研究会1976)。

 明治8年「「中小学校地下附処分の稟議」(別紙)」・・・中学校と師範学校の用地申請として、「甲府旧郭内壱番組開智学校敷地」を中学校として、「甲府旧郭内壱番組 師範学校敷地」、「元徽典館敷地」を師範学校地として内務省に申請。

 これらの文書から、学校用地として「官有地」であるという前提条件があったことが指摘できます。

また、明治10年5月2日に制定された「学校建築法」第2条によれば、

 一生徒通学利便ニシテ静雅の趣味を有セシ処

 一土地高燥ニシテ眺望ニ富ミ新気流通シ或ハ西北ニ樹木アル処

 一地形南北ニ短ク東西ニ長ク人家ニ密邇セサル処

と記されています。つまり、学校用地の選定は、第一に官有地を前提として、

 1. 交通の便が良く、静かな場所であること

 2. 地面が乾いていて、眺望、通気性が良い場所

 3. 日当たりが良く、人家が密集していない場所 などが条件とされていました。

 さて、山梨県内の学校と遺跡の状況と照合してみると、実際に遺跡が見つかる事例が多くあることに気がつきます。例えば、

 都留高校(大月市)・・・大月遺跡(縄文時代、奈良~平安時代・集落)

 都留興譲館高校(都留市)・・・三ノ側遺跡(奈良~平安時代・集落)

 青州高校(市川三郷町)・・・新町前遺跡(平安時代~中世・集落、水田)

 甲府工業高校(甲府市)・・・塩部遺跡(弥生~平安時代・集落)

 甲府第一高校旧敷地(甲府市)・・・甲府城跡 楽屋曲輪(近世・城館)

 これらのように、学校建築法で明文化された条件の土地において遺跡が多く見つかるということは、昔の人たちも同じような考え方でより良い土地を選んでいたと言えます。

中近世城館跡と学校用地の公共性の連続

 さらに視点を変えてみると、次のような現象もみられます。それは、学校用地と中近世の城館跡や陣屋跡との合致が数多くみられるという点です。峡東地域に注目して見てみると、塩山南小学校(甲州市・宇賀屋敷・池田氏屋敷)、松里小学校(甲州市・武田兵庫助屋敷)、石和南小学校(笛吹市・石和陣屋跡)、浅川中学校(笛吹市・米倉氏館跡)、松里中学校(甲州市・二階堂氏屋敷)、一宮南小学校(笛吹市・新巻屋敷)などがあります。

 これらの合致は、明治7・8年に発出された学校用地の条件として、「官有地」を前提としたことによるものと考えることもできます。つまり、中近世の土豪屋敷や城館跡がその機能を廃してのちも土地の公共性が保たれた場合、学校建築法を契機にその土地(遺跡)が学校用地になっていった可能性があります。

 まとめ

 「遺跡」というと、遠い昔の人たちが残した活動痕跡であり、今現在の生活や文化、習慣とはまったく異なるもので「よくわからないもの」と思いがちですが、交通の便が良い場所であったり気候条件が良い場所であったりと、現在の人と同じ感覚で土地選びをしていました。こうした土地選びの共通性に着目すると、昔の人たちの暮らしに共感できる部分があるのではないでしょうか。

 また、ある時期に、とある土地に作られた屋敷・城館等が使われなくなった後、(意識的・無意識的かかわらず)その土地に残る「公共性」という性格が、「学校」施設として現代社会に表されている可能性があります。

 これのように、土地が元々持つ自然的な条件やその後に付加された性格の積み重ねが現代社会に息づいていることに、地域の歴史を考える面白さがあると思いませんか?

  

 

【参考文献】

山梨県学校教育史研究会1976『山梨県教育百年史』第1巻 明治編

 宮里学・御山亮済2020「甲府盆地における埋蔵文化財包蔵地の捕捉に関する試論-峡東地域における土地履歴の追跡-」『研究紀要』36

 

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