ページID:64904更新日:2019年1月30日

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知事就任訓示

 

平成27年2月17日(火曜日)午前10時50分から

防災新館2階会議室

訓示要旨

このたび、県民の皆様のご信任をいただき、第61代山梨県知事に就任いたしました後藤斎です。

本日より皆さんと共に山梨県の大いなる発展をと県民の皆さんの暮らしの向上を目指して県政をになうことになりました。

先ほど県庁前庭で多くの方々に迎えていただく中で初登庁し、そして今、こうして皆さんの前に立ちますと、改めて県民の皆様から信任された知事としての職責の重さを痛感し、身の引き締まる思いが致しております。

これから県政の新たな出発にあたり、これからの県政運営に当たっての基本的な考え方について、私の所信の一端をお話しさせていただき、皆さんと『想い』を共有していきたいと思います。

 

まず厳しい社会経済情勢が続く中での8年間の県政運営を担当され、富士山の世界遺産登録を実現させるなど多くのご功績を実現され昨日任期を終え、退任されました、横内前知事のご苦労に対しまして、深甚なる敬意を表します。13日の引き継ぎ式の際、横内前知事からは果敢にあらゆる角度から挑戦して欲しいということを直接伺い、さらに『熟議断行』というお言葉をいただきました。私自身常、この言葉を常に思い描きながらこれからの県政運営にあたっていきたいと思います。

 

次に、私の生い立ちと本日ここの至るまでの道のりについて、若干述べさせてください。

私は昭和32年7月22日、甲府市後屋町の農家に次男として生まれました。当時、私の家では養蚕と野菜、コメづくりを行っていました。そうした環境の中に育ったことが後に農業、食糧問題への関心を培ったのだろうと思います。

私が食糧・エネルギーに最初に関心を持ったのは高校時代でした。高校1年生の時に読んだローマクラブの「成長の限界」には心を揺さぶられました。食糧問題に大きな関心を持ったのもこの本がきっかけです。このまま地球の人口が増加していけば、近い将来、世界では食糧不足に陥る、何とかできないか、こんな思いにかられました。

高校2年から3年にかけては、将来何をすべきか真剣に悩みました。技術者になって砂漠を緑に変えるか、それとも経済の世界で食糧問題を考えるべきか。結局、技術者の道を断念し、仙台にある東北大学の経済学部に進学しました。

大学2年の時には「食糧・人口問題研究会」を主宰し、仲間たちと夜を徹して議論したものです。そうした議論の中で、食糧・人口問題を解決するために農水省への入省を決意しました。

農林水産省に入省後は主に日米農産物交渉、食料流通政策を担当し、JICA(国際協力事業団)、JETRO(日本貿易事業団)ニューヨークに赴任する等国際関係業務を多く経験しました。外国との交渉はまず、国内での合意形成をし、その枠内で相手国と合意形成をすることですが国論が2分されている場合相手国も同じ状況であり、意見を同じくする産業界に粘り強く説得をすることが『交渉』の合意につながることも学びました。こうした国際的な業務に従事する中で、真に国民のための仕事をするには省庁の垣根にとらわれた霞が関ではなく、永田町を目指すしかないとの思いが募りました。

1996年、最初の国政へ挑戦は、山梨1区から出馬し、3位で落選という結果に終わりました。

1999年1月、旧3区に移り、1年かけて3区の皆様からお話を伺う活動を行いました。手がかじかむ寒風の中も、背広に「塩」が噴く炎天下でも、沢筋の集落、商店街、町工場、果樹園と、県民の皆様の日々の生活の場へお邪魔し、お一人お一人から、地域の抱える課題、子育て、介護等生活上の問題などさまざまなご意見、政治への要望、期待を伺い、議論を重ねてきました。

この時知った県民の皆様お一人、お一人の生活の重み、そしてその一票の重みを今でも心に刻んでいます。

2000年6月の衆議院選で初当選し、その後1回の落選を挟んで通算4回の当選を果たすことができました。

国会では多くの委員会の理事に就任し、法律を成立させる与野党の取りまとめ役を果たしました。特に国会対策委員会の役員を与党時代、野党時代通じてさせていただいたことが、お互いを信頼し法案を修正させよりよい内容にしていくことでお互いが歩み寄り合意したことは必ず実行し「信頼関係」をつくり多くの政党の方々、また霞ヶ関の方々にもたくさんの知己を得ることにつながりました。

文部科学大臣政務官として科学技術行政や文化行政の発展に尽くせたこと、内閣府副大臣として日本の防災力の向上や地域の活性化等多くの仕事を政府の中枢にあってできた事は、私に大きな経験の力とものごとを実現する力をつけさせていただいたと本当に感謝しています。

政治活動は一人ではできません。私を政治家として育ててくれた多くの方々、県民の皆様の声援に支えられて今日まで歩んできました。このことに誇りと自信を持ち、そうした皆さんの声にこたえるためにも、今後とも「何事にも負けない」強い精神力をもって事に当たっていこうと思っております。

 

今日の山梨が抱える問題は、時代の大きな流れ、潮流のなかでとらえられることが必要です。明治維新以降100年の歴史を振り返る中で、今日の現状と課題を考えてみました。

100年前とは、日本全体が近代化に向けて急速に変化を遂げていた時代でした。その後二つの世界大戦を経て、日本は高度経済成長を遂げながら、産業構造やライフスタイル、そして価値観をも大きく変化させてきました。

今日の山梨が抱える課題は、こうした日本の近代化の結果としてもたらされたものであり、簡単に解決することはできないかもしれません。しかし、私たちはただそれを受け入れるのではなく、今日の私たちが持つ英知によって、より良い未来へと導いていかねばなりません。

わたくしは、昨年秋に発刊した著書「ダイナミックやまなし」の中で、「数字で振り返る過去百年の山梨」として、土地利用、産業構造、教育、医療、子育て等様々な項目で過去百年を振り返りました。そして、「過去百年から見えた山梨の課題」と、それへの処方箋を書いてみました。

 

過去にさかのぼり、また、県民の皆様との対話を通じて、私は山梨の主要な課題を次の6つに整理して考えています。

 

1つ目は、本県の雇用と経済の多くを支えている基幹産業の発展です。

 

2つ目は、農林業、地場産業、観光などの地域資源を生かして個性豊かな産業を生み出すことです。

 

3つ目は、少子化が進行する中、明日の山梨を担う人材を育成する教育体制、子育てを支援する体制を充実させるということです。

 

4つ目は、生涯にわたって心身とも健康に、活き活きと暮らすことができる地域にすることです。

 

5つ目は、自然災害の多発やインフラの老朽化、公共交通や商店街の衰退等が進行する中、地域の暮らしと企業活動をいかに守るかということです。

 

6つ目は、以上の課題を解決し、元気な山梨を作っていくため、地域づくりのイノベーションを起こすということです。

 

これら6つの課題はそれぞれ独立したものではなく、相互に関連し、大きなスパイラルを描いています。今、私たちが明るい未来をめざし、強い意志をもってこれらの課題に対処しなければ、減少傾向に転じている定住人口と共に負のスパイラルに陥っていく可能性があります。それを回避し、将来の山梨を考えるうえで最も重要な課題である定住人口の減少を食い止め、増加へと反転させていかなくてはなりません。

 

私は、これら六つの課題に対応して、今やらねばならない117の選挙公約を掲げて、県民の皆様に信を問いました。新しい課題、困難な課題への対応が数多くありますが、直ちに検討実行に着手してください。

 

もちろん、課題はこれらにとどまるものではありません。郷土山梨が大変動期に入っており、各々の地域や産業で、「今」解決しなければならない課題が山積していることは皆さんも十分承知されていると思います。それぞれの分野で、柔らかな感性と熱い気持ちをもって、県民の暮らしを守り、山梨を元気にするため、課題の発見と解決に努めてください。

 

過去100年を振り返ることにより見えてきた目指すべき未来は、数々のきらりと光る価値を世界に発信し、新たな日本のモデルとなる「100万人都市」山梨です。子どもたちや子育て世代、高齢者や障がい者など誰もが安心して暮らせる、この目指すべき新たな地域社会を、山梨が持つ「エネルギー供給力」、「景観・農業力」、「安心・防災力」を高めつつ、県民の皆様と共に創りあげていくという考えを、ダイナミックやまなし「プラチナ社会構想」と名付けました。

 

プラチナは、他の貴金属よりも耐久性が高く、永遠に輝き続けることで知られています。また、化学変化を促進させる高い活性を持つことから、触媒として工業用に広く利用されています。ちなみに、山梨から生まれた新たなジュエリーブランドKoo-fu(クーフー)にも特に純度の高いプラチナが使われています。

 

私は、山梨もプラチナと同様に、個性・特性を最大限に活かしながら、将来にわたって輝き続ける地域でありたいという意志をこの名前に込めています。また、これからの地域社会では、地域の持つ豊かな資源を背景に、産業、行政、教育、金融、NPOなど多様な主体が連携して課題解決を目指し、イノベーションを起こしていくことが必要です。そのとき、こうした連携のためには「触媒」の働きをする主体が必要ですが、県庁、県職員にはおおいにこの「触媒」の働きを期待したいと思います。

 

歴史にその好例があります。

明治10年10月、横浜港から二人の山梨県の青年が欧州に向けて旅立ちました。ワインづくりの技術を学ぶため祝村葡萄酒醸造会社からフランスへ派遣された土屋助次郎と高野正誠です。多くの山梨県人が海を見たこともなかった時代、フランスへワインづくりの研修生を派遣するというのは、当時の常識とかけ離れた異例の事業だったでしょう。このフランスへのワイン研修生派遣には、当時の山梨県庁も深くかかわっていました。時の県令、藤村紫朗はこのプロジェクトを支援し、自ら祝村葡萄酒醸造会社の株主になるとともに、研修生をフランスへ引率した明治政府の経済官僚、前田正名との間を取り持ったとされています。また、祝村葡萄酒醸造会社の株主となるよう県内の生糸貿易商、製糸業者、金融業者、豪農などに呼びかけたのも山梨県勧業課長福地隆春ほかの職員たちでした。

山梨県も支援する「甲州ワイン欧州輸出プロジェクト」が始まって6年になります。甲州ワインの評価も年々高まってきましたが、このプロモーションに出席した高名なワイン評論家ヒュー・ジョンソン氏はこう述べています。「百年以上前、日本から二人の青年がワインを学びにヨーロッパへやってきた。そして今、彼らの故郷から、皆さんはこのおいしいワインを携えてヨーロッパへ売り込みに来た。なんと素晴らしいことだ」と。明治時代の山梨で官民連携して行われた、時代に先行するプロジェクトにおいて、山梨県庁と県職員は、触媒の役割の一端を担っていました。その成果は、百年後の今、光り輝いています。

 

現代の私たちも、そうした百年後にも光を失わないようなチャレンジに積極的にかかわっていきましょう。

 

行政、そして公務員は、継続性や安定性を重視しがちです。確かに、行政にはそういう側面もあることは承知しています。しかし、私は、あえて継続性や安定性をイメージする一般名称の「山梨県政」ではなく、「後藤県政」として県民の負託に果敢に応えていきたいと思います。「後藤県政」の責任者として、皆さんに次の5つの基本姿勢で仕事にのぞんでいただくよう要請します。

 

第1に、2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに山梨が再生に向かうことができるか否かが山梨にとってのデッドラインだと考えてください。そこに向けて各々の県内産業の基盤を強化していくという「時間的限界」の意識を共有していただきたい。

 

第2に、あらゆる問題の解決や新しい事業の具体化にあたっては、できないと思わないでください。どうしたらできるかを考えてください。

 

第3に、仕事は失敗を恐れないでください。チャレンジしてください。

 

第4に、常に国際的な感覚をもつ『鳥の目』という部分と、現場を凝視する『虫の目』の両方の視点をもって仕事に取り組んでください。

 

第5に、私の任期中に結果を出してください。そして、すべての責任は知事である私がとります。

 

この5つの基本姿勢で、県民の暮らしの向上のため、また、その基盤となる経済活動の強化のため、進取の精神と県民に奉仕するという心構えをもって、仕事に当たってください。

私も皆さんの先頭に立ち、全身全霊を傾けて、郷土山梨を更に発展させるため全力を尽くして働くことを誓い、知事就任のあいさつといたします。

このページに関するお問い合わせ先

山梨県知事政策局広聴広報グループ 
住所:〒400-8501 甲府市丸の内1-6-1
電話番号:055(223)1336   ファクス番号:055(223)1525

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