トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0554境川窯跡群と毘沙門遺跡-山梨の須恵器作り-
ページID:127708更新日:2026年9月30日
ここから本文です。

古墳時代、山梨県の須恵器作りを語る上で、笛吹市の境川地域は外せません。
写真は、笛吹市境川町の牛居沢(うしいざわ)窯跡調査の様子。実際に須恵器を焼いた窯の本体が見つかっています。

こちらは、笛吹市境川町石橋にある毘沙門(びしゃもん)遺跡から出土したものです。
毘沙門遺跡は古墳時代から平安時代の集落跡で、リニア中央新幹線建設工事に伴って発掘調査が実施されました。
遺跡名:毘沙門遺跡(びしゃもんいせき)
所在地:笛吹市境川町石橋地内
調査主体:山梨県埋蔵文化財センター
調査期間:令和6年12月~令和7年4月(第3次調査)
灰色でぐにゃぐにゃと曲がった塊。一体何だと思いますか?
実はこれらは、古墳時代の「須恵器」です。
――といっても、きれいな形をした完成品ではありません。窯の中で焼いている最中に「焼き歪(ひず)み」や「焼き膨(ぶく)れ」を起こしてしまった、いわば失敗品です。

例えばこちらの大甕の破片(左が外側、右が内側)。
※須恵器の大甕とは?→No.0539馬乗山2号墳-須恵器の中を覗いてみよう-
この大甕は、パンのように膨らんでしまい、焼き上げる最中に歪んでしまったことが分かります。(発掘調査現場では、須恵器らしからぬ軽さと見た目から、みんなから「おせんべい」と呼ばれていました。)
毘沙門遺跡から出土した、一見するとただの「失敗した土器」。視点を変えると、古墳時代の人々の境川地域での須恵器作りが見えてきます。
山梨県内の古墳時代の須恵器生産に関わる遺跡は多くありません。ただし、山梨県でも須恵器の生産が一切なかった訳ではなく、韮崎市の御座田(みさだ)窯跡群をはじめ、いくつかの地域で須恵器の窯跡が見つかっています。
そして、須恵器の失敗品が出土した毘沙門遺跡。この遺跡が立地する境川地域も、古くから、須恵器窯があったと伝わる場所がいくつか存在しています。それらの窯跡が笛吹市境川町の坊ケ峰(ぼうがみね)周辺の限られた地域に密集していたことから、まとめて「境川窯跡群(さかいがわようせきぐん)」と呼ばれています。
実際に、調査によって窯跡が見つかった例もあり、境川地域において古墳時代に須恵器生産が行われていたことが明らかとなっています。

全国Q地図(MPI赤色立体地図)により作成
黒丸が須恵器の窯跡があったと考えられている地点です。このうち、下向(しもむこう)窯跡と牛居沢(うしいざわ)窯跡では、実際に窯の痕跡が報告されています。
境川窯跡群での窯跡推定地を見ると、いずれも丘陵のふもとや、山の裾斜面部分にあることが分かります。これは全国の須恵器窯跡にも共通する傾向で、窯を作るための斜面、製品を焼くための燃料、良質な粘土がとれる場所、等々、須恵器を焼くための様々な条件を満たす必要があったからだと考えられています。
そして地図を見ると、毘沙門遺跡も境川窯跡群からほど近い、丘陵のふもと近くに作られた集落であることが分かります。
冒頭で紹介した須恵器の失敗品たちですが、これらの土器は竪穴建物跡や、土器をまとめて捨てたとみられる場所から見つかりました。須恵器の失敗品は、窯近くの灰原(はいばら:窯から掻き出された灰や薪の燃え残り、焼く際に歪んだ須恵器が捨てられる場所)などから見つかることが多く、遠くの集落に出荷されることはあまりありません。
境川地域には丘陵が多く、この地域には、まだ多くの窯が発見されずに眠っていると考えられています。毘沙門遺跡の集落ですが、もしかすると周辺には未発見の窯が眠っているのかもしれません。
主要参考文献
境川村役場 1978『境川村誌』
白石耕治2024『古墳時代須恵器生産史の研究』雄山閣
橋本博文 1979「甲斐における須恵器生産」『丘陵』甲斐丘陵考古学研究会会報6
山梨県埋蔵文化財センター1990『山梨県生産遺跡分布調査報告書』山梨県埋蔵文化財センター調査報告第51集
次の遺跡トピックスへ|遺跡トピックス一覧へ|一つ前の遺跡トピックスへ