トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > No.0550石垣に残された甲府の歴史ー史跡甲府城跡

ページID:123698更新日:2025年12月2日

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遺跡トピックスNo.550
石垣に見る甲府の歴史ー史跡甲府城跡ー             

甲府の中心に鎮座する甲府城跡。

このお城の見所は、何と言っても約450年前からそびえたつ古い石垣です。城を取り囲む石垣は壮大で、脇を歩いているときにふと立ち止まって見上げると、その高さと荒々しさに圧倒されてしまいます。

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しかし、甲府城がお城として機能したのは江戸時代の終わりまで。

明治維新以降は、中央線の敷設によって城が南北に分断されたり、周辺の開発の中で堀が埋め立てられるなど、近代化の波の中で少しずつ姿を変えていきました。

実はその過程は、石垣からも見てとることができます。

今回は、そんな甲府城の変容が垣間見える箇所をご紹介していきましょう。

 

遺跡名:史跡甲府城跡(しせきこうふじょうあと)

所在地:甲府市丸の内一丁目ほか

時 代:近世

過去のトピックス:甲府城跡(石垣関係) 00390119014601560161017601890198021402250257026103520364038903970403040804120418042004560487

 

石垣の違い、見抜けますか?

甲府城がつくられたのは、武田氏が滅んだ後の約450年前頃。(参考:甲府城の歴史

この時代は、織田・豊臣支配のもと、全国で高い石垣を持つ城がつくられ始めた頃でした。

織田・豊臣時代の城郭石垣は、自然のままの石をほとんど加工せずに積んだ野面積みと呼ばれるスタイルで、石それぞれの形に合わせて積まれるのが特徴です。時代が下っていくと石の大きさや形が概ね一定になるように加工され、横一列にまっすぐ積まれるなどの変化を遂げていきます。(参考:No.0408

現在、甲府城跡に残るほとんどの石垣は野面積みで積まれています。

つまり、甲府城跡は高い石垣を持つ城の中でも古い時代の特徴をよく残しているお城なのです。

02N40ishigaki.jpg

 

上の写真は、県庁の東側、舞鶴通りに面する石垣です。この場所も例に漏れず、野面積み石垣が堂々と立っています。

しかし、ある部分から石垣の表情がガラッと変わってしまうこと、ご存じでしょうか。

 

03tenkanten

上の写真の箇所は、写真中央の左右で石積みの様相が全く違うことがわかります。

左側は、様々な大きさ・形の石が積まれている、いわゆる野面積みの石垣です。

しかし右側はどうでしょう。まず、ひとつひとつの石が概ね同じ大きさで、とても小ぶりなのがわかります。また、一段ずつ列を作るように積まれているようです。

もう少し近づいてみましょう。

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四角形に加工された石を、斜めに積んでいるのがわかります。やはり野面積みの石垣と比べると、全く積み方が違います。

これは、主に幕末以降に多く使用された落とし積みや谷積みと呼ばれる積み方です。

現代でも建物基礎などの身近なものから、ダムなどのインフラ施設に至るまで広く使用されています。

変わりゆく時代と失われる甲府城

それでは、なぜこの場所はひと繋がりの石垣に二つの積み方が現れているのでしょうか。

改めて二つの積み方が重なり合う箇所を確認すると、野面積み石垣の上に落とし積みの石垣が乗っていることがわかります。この石垣は、築城以降に何らかの理由で新しく積まれたということです。

城郭に石垣が新しくつくられる理由としては、以下のふたつが考えられます。

① 石垣に傷みが生じた、もしくは崩れてしまい、新しい積み方で修理した。

② 本来石垣が無い場所に、新たに石垣を作った。

ヒントを教えてくれるのが、江戸時代に描かれた絵図です。

過去の甲府城地図

上の地図は、現在の地図に江戸時代の絵図を重ね合わせたものです。

当時の甲府城の大きさは、ピンクの線で囲った範囲です。甲府駅の一部や県庁も、実はお城の中にありました。

舞鶴通り沿いの石垣の部分を拡大してみましょう。

青い線は、城内の石垣や曲輪、建物を示しています。舞鶴通りより右側のように城内の区画が今とほとんど変わらない部分もあれば、県庁の敷地内のように、当時の様子はほとんど無くなっている箇所もあります。

さて、今回取り上げた舞鶴通り沿いの石垣部分を見てみると、ピンク色で示した部分が現在の道路に突き出しているのがわかるでしょうか。

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この場所には、かつて台所曲輪と呼ばれる曲輪があり、月見櫓という二階建ての櫓も建っていました。

しかし、この曲輪は明治時代以降に両脇の野面積み石垣の部分まで削り取られてしまいます。削ったままの状態では土がむき出しなので、擁壁として新しい石垣を積んだのでしょう。

つまり築城期には今のような石垣は本来存在せず、新しく作られたものであることがわかります。

なお、新しい石垣の幅は台所曲輪の南北幅とほぼ同様ですので、甲府城の失われた一部分の規模感をイメージすることもできるでしょう。

甲府城の石垣のほとんどは野面積み石垣なのですが、こんなふうに外観の異なる石垣スポットもいくつかあります。

中には、よーく観察しないとわからない、“築城期ふう”につくられた石垣もあります。

 

甲府城誕生の頃から残る“古参”の野面積み石垣を堪能したら、間違い探しをする気分でちょっと毛色の違う石垣を探してみてはいかがでしょうか。

その石垣の違いには、甲府城が約450年間で辿った何らかの物語がきっと隠れているはずです。

 

 

 

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