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ページID:70929更新日:2019年3月25日
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甲府城の歴史甲府城築城天正10(1582)年に武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となりましたが、本能寺の変後は徳川家康の支配下となり、平岩親吉が城代になりました。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移され、甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が支配することになりました。秀勝の移封後は、加藤光泰が、光泰が文禄の役で没すると浅野長政・幸長の支配となりました。 発掘調査により、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、豊臣家の家紋瓦が出土していることから、築城はこの頃と考えられています。関ヶ原の戦後に、甲斐は再び家康の支配下となり、慶長12(1607)年には幕府の直轄地となりました。城番は武田十二騎がつとめ、支配が代わった後も城番制度が続きましたが、寛文元(1661)年に徳川家光の四男の徳川綱重と、その子綱豊(後の6代将軍家宣)が甲府藩・甲府家をたてました。その頃城の大規模な修復がおこなわれています。 柳沢家の治世と甲府勤番支配
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