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ページID:91668更新日:2019年10月2日

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遺跡トピックスNo.501_三ノ側遺跡の甲斐型土器

都留市の遺跡

0026四ノ側遺跡-平安時代住居

0070玉川金山遺跡-奈良時代甕-

0080玉川金山遺跡-土坑墓-

0090玉川金山遺跡-炉穴-2007年4月4日~2007年4月10日

0093玉川金山遺跡-鉄鏃-

0099玉川金山遺跡-地下式坑-

0118玉川金山遺跡-集石-

0182玉川金山遺跡-台石-

0082中溝遺跡-耳飾り-

0104天正寺遺跡-弥生土器-

0128天正寺遺跡-さまざまな弥生土器-

0153中谷遺跡-柄鏡形敷石住居跡-

0190中谷遺跡-三角とう形土製品-

0258中谷遺跡-注口土器と蓋-

0263中谷遺跡-集石土坑-

0167美通遺跡-敷石住居跡-

0174美通遺跡-猿橋溶岩と集石土坑-

0201美通遺跡-発掘調査速報-

0204美通遺跡-発掘調査速報2-

0206美通遺跡-発掘調査速報3-

0220美通遺跡-発掘調査速報4-

0281美通遺跡-イノシシ形装飾付浅鉢-

0289美通遺跡-D区発掘調査速報-

0300美通遺跡-D区発掘調査速報2・玦状耳飾り-

0175九鬼2.遺跡-埋納された装飾土器-

0305九鬼2.遺跡-蔵骨器-

0298三ノ側遺跡-皇朝十二銭・発掘調査速報1-2011年8月3日~2011年8月10日

0303三ノ側遺跡-須恵器・発掘調査速報2-

0320三ノ側遺跡-竪穴住居跡のカマド・発掘調査速報3-

0326三ノ側遺跡-掘立柱建物-

0349三ノ側遺跡-羽口-

0471三ノ側遺跡-いろいろな地域の土器-

0501三ノ側遺跡-甲斐型土器-

0372牛石遺跡-縄文時代のストーンサークル-

0400谷村城-歴史と変遷-

0413谷村城-発掘調査速報-

0422谷村城-水にまつわる遺構-

0476中溝遺跡-出土炭化物-

 

三ノ側遺跡の概要

 三ノ側遺跡は、山梨県都留市田原から上谷にかけて存在する大規模な遺跡です。1981(昭和56)年と2001・2002(平成13・14)年には、都留市教育委員会によって発掘調査が行われ、奈良・平安時代の竪穴建物跡などが発見されています。とくに1981(昭和56)年に行われた発掘調査では、皇朝十二銭の和同開珎や富寿神宝と呼ばれる銅銭や銅製の小壺などが出土していることから、当時の多良郷の中心地と考えられています。
 山梨県教育委員会(埋蔵文化財センター)では、2011(平成23)年に県立産業技術短期大学校都留キャンパス建設に伴い三ノ側遺跡の発掘調査を行いました。
 発掘調査の結果、奈良・平安時代の竪穴建物跡13軒、掘立柱建物跡4棟、奈良時代から中世にかけての土坑129基などが発見されました。また、竪穴建物跡のカマドを中心に土師器や須恵器などの土器、刀子などの鉄製品が出土しました。 

三ノ側遺跡の甲斐型土器

 奈良・平安時代の甲斐国(山梨県)では、甲斐型土器といわれる甲斐国特有の特徴を持った土師器が使われていました。三ノ側遺跡からも竪穴建物跡のカマド周辺などから甲斐型土器が出土しています。
 甲斐型土器には大きく分けて坏と甕がありますが、それぞれに異なる特徴があります。
坏は現在の茶碗のような形をした土器です。色は明赤褐色もしくは橙色で、非常に緻密な土を使って作られています。また、坏の内面には暗文〔あんもん〕といわれる先端のとがった道具を使って線状の痕をつけた模様がつけられています。
 甕は現在の鍋の役割をした調理用の土器です。色は赤褐色や暗褐色で、土には石英などの砂粒を多く含んでいます。また、甕の表面にはハケメといわれる木でできた板状の道具で表面を削った痕が見られ、外側は縦方向、内側は横方向のハケメが施されています。

甲斐型土器の坏 甲斐型土器の甕

〔写真〕三ノ側遺跡出土の甲斐型土器(左が坏、右が甕)

 甲府盆地の中の奈良・平安時代の遺跡から出土する土師器は、甲斐型土器がほぼ100%を占めます。これは、甲斐国の中心地が現在の笛吹市あたりにあったことと関連があると考えられます。しかし、三ノ側遺跡からは、甲斐型土器だけでなく、在地の堀之内原タイプと呼ばれる土師器甕や、現在の神奈川県にあたる相模地方(相模国)で作られた相模型、静岡県東部(当時は駿河国)で作られた駿東型の甕が出土しています。これは、地勢的に相模国や駿河国に近い三ノ側遺跡やその周辺の遺跡にみられる特徴であり、三ノ側遺跡やその周辺地域では、甲斐国以外の国々と頻繁に交流があり、強い結びつきを持っていたことがわかります。
 
 堀之内原タイプ、相模型、駿東型の甕については下記のトピックスをご覧ください。
 遺跡トピックスNo.0471 三ノ側遺跡-いろいろな地域の土器
 
 また、三ノ側遺跡では、土師器坏が奈良・平安時代を通して甲斐型土器に統一されているのに対して、土師器甕は堀之内原タイプや相模型、駿東型のものが奈良時代にのみみられ、平安時代になると甲斐型の土師器甕に統一される傾向がみられました。
 坏は食事の際に使われるもので、役人や位の高い人間も目にするものなので、奈良時代の段階において、すでに甲斐国の中で甲斐型に統一されていたと考えられます。
 一方、土師器甕は調理の際に使われるものなので、位の高い人間の目には触れません。そのため、奈良時代の段階では、入手しやすく使い慣れた在地や相模型・駿東型の甕を自由に使用することができたのではないかと考えられます。
 しかし、平安時代になると統制が強化され、調理用具である土師器甕についても、甲斐型に統一されることになったと考えられます。
 平安時代に入ると、郡司(国の下に置かれた行政区画である郡を治める人間)の任命方法が、それまでの決められた氏族の中から任命される形ではなく、統治能力に優れた者が任命される形に変わります。このことが、土器の使用に対する規制強化にも影響を与えたのかもしれません。

 

三ノ側遺跡の関連トピックス

  • No.0298皇朝十二銭・発掘調査速報1
  • No.0303須恵器・発掘調査速報2
  • No.0320竪穴住居跡のカマド・発掘調査速報3
  • No.0326掘立柱建物跡 

     

     

     

     

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