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更新日:2017年6月6日

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埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.372牛石遺跡

 

都留市の遺跡

0026四ノ側遺跡-平安時代住居-
0070玉川金山遺跡-奈良時代甕-
0080玉川金山遺跡-土坑墓-
0090玉川金山遺跡-炉穴-
0093玉川金山遺跡-鉄鏃-
0099玉川金山遺跡-地下式坑-
0118玉川金山遺跡-集石-
0182玉川金山遺跡-台石-
0082中溝遺跡-耳飾り-
0104天正寺遺跡-弥生土器-
0128天正寺遺跡-さまざまな弥生土器-
0153中谷遺跡-柄鏡形敷石住居跡-
0190中谷遺跡-三角とう形土製品-
0258中谷遺跡-注口土器と蓋-
0263中谷遺跡-集石土坑-
0167美通遺跡-敷石住居跡-
0174美通遺跡-猿橋溶岩と集石土坑-
0201美通遺跡-発掘調査速報-
0204美通遺跡-発掘調査速報2-
0206美通遺跡-発掘調査速報3-
0220美通遺跡-発掘調査速報4-
0281美通遺跡-イノシシ形装飾付浅鉢-
0289美通遺跡-D区発掘調査速報-
0300美通遺跡-D区発掘調査速報2・玦状耳飾り-
0175九鬼2.遺跡-埋納された装飾土器-
0305九鬼2.遺跡-蔵骨器-
0298三ノ側遺跡-皇朝十二銭・発掘調査速報1-
0303三ノ側遺跡-須恵器・発掘調査速報2-
0320三ノ側遺跡-竪穴住居跡のカマド・発掘調査速報3-
0326三ノ側遺跡-掘立柱建物-
0349三ノ側遺跡-羽口-
0372牛石遺跡-縄文時代のストーンサークル-
0400谷村城-歴史と変遷-
0413谷村城-発掘調査速報-

縄文時代のストーンサークル牛石遺跡〔都留市〕

中央道富士吉田線を大月から富士吉田方面へ向かい都留インターで降りて都留市立病院を過ぎて桂川を渡った西側には大幡川に沿って13haにおよぶ広大な台地が広がっています。東西方向にのびる山並にはさまれた狭小地ですが、これほど広い平坦地は富士山北麓でもめずらしいところです。

昭和55年、この台地でほ場整備に伴って発掘調査が行われ、縄文時代の石を並べたものがいくつかみつかりました。翌56年にこの石を並べたところの本格的な調査をおこなったところ直径50mにおよぶ縄文時代の環状列石(ストーンサークル)であることがわかりました。出土した土器からは縄文時代の中頃となる中期末(今から4000年位前)につくられたものであることがわかりました。

遠景

大幡川右岸の台地上の西側に環状列石がつくられている。北東から。(写真は『都留市史』より)

この環状列石は、いくつかの小さな配石組石が点在し、これらをつなぐように列石があります。配石の下には土器を埋設してあり、お墓と思われるものもあります。また10個程度の石をまとめて配した組石や立石、石を組んで祭壇状にしたものなどが部分々々にあります。特に2号配石と3号配石をむすぶ直線的な列石は、この延長線上の南側の山際に富士山をみることができます。環状列石はよくみるときれいな円ではなく配石には整っているところと雑なところなど粗密があります。特に北東部分はかなりみだれています。また南西側は部分的に二重の円になっています。北西側は石列が厚くなってもいます。粗密ばかりではなく、断続的であって全体の円は途中に切れているところも数カ所あります。石は川原石ですが、中には溶岩もあります。そしてこの環状列石は縄文時代中期末の短時期につくられ、後期までには終わってしまいます。

ストーンサークル

牛石遺跡の環状列石(ストーンサークル)。(写真は『都留市史』より)

富士山の噴火と縄文人

実はこの18haにもおよぶ広大な台地のなかで、環状列石の場所からしか富士山をみることができません。それも富士山頂がわずかにみえるだけです。しかし、縄文時代に環状列石をつくるにあたり、この広大な台地上で富士山を意識していることがその立地からわかります。

縄文時代中期頃の富士山はどのようであったのでしょうか。同じ大幡川流域にある牛石遺跡より西側にある久保地遺跡では縄文時代中期後半の竪穴住居がいくつかみつかっています。牛石遺跡よりわずかに古いムラになります。この遺跡の竪穴住居からは富士山からとんできたスコリア(細かい火山砕屑物)がたまっているのがみつかりました。おそらくは住まなくなって窪地になった竪穴住居の跡に降り積もったものと思われます。中期後半頃はよく富士山が噴火し、こうしたスコリアがここ都留市まで飛んできたことがわかります。久保地遺跡から富士山はみえませんがこうした被害を受けやすいところでした。しかし、久保地遺跡をみると縄文時代の生活はスコリアが降ったあとも続いています。生活を移すほどの災害ではなかったようです。また西桂町下暮地の宮の前遺跡でも同じ中期末の住居跡がみつかっていますが、やはり中期後半期に降ったスコリア層がみられました。このころの富士山は山頂から活発に噴煙が立ち上り、御殿場市方面など広い範囲に火山噴出が降りそそいでいます。

牛石遺跡の環状列石がつくられている頃、富士山は活発に山頂から高い噴煙を上げながら噴火していました。この環状列石は、広大な台地上であえて噴火する富士山がわずかにみえる位置を選んでおり、それは噴煙を上げてスコリアを噴き飛ばしてくる富士山を意識していたことがわかります。

富士山

牛石遺跡からみえる富士山

牛石環状列石と縄文ランドスケープ

牛石遺跡にはもうひとつ山にかかわる選地の理由がわかっています。牛石遺跡のちょうど西側には三峠山がそびえております。この山は三つの峯からなるが中央の主峰である開運山(1785m)には、牛石遺跡環状列石から見ると春分、秋分に日が沈みます。この日は夏至と冬至をはさんだちょうど中間日にあたり、昼と夜の時間が同じとなる日です。夏至、冬至、春分、秋分をあわせて二至二分といい、どこに暮らしていようと同じであり、世界共通の日となります。牛石環状列石はこうした太陽の運行もあわせて意識して選地され、つくられているといえます。ちなみに夏至は、三ツ峠山の北にそびえてみえる鶴ヶ鳥屋山(1374m)の残念ながら山頂ではなく南側の斜面に日没点があります。冬至もとくに特徴はみられません。しかし、牛石環状列石は広大な台地の上で南側の富士山がみえるライン上と春秋分に三ツ峠山日没のライン上の交点にあることがわかります。

春分

春分の日の牛石遺跡での日没三ツ峠山に日が沈む

夏至

夏至の日の日没鶴ヶ鳥屋山の左側にかかる

こうした環状列石はいったいどういう意味があるのでしょうか。全国的にみると環状列石は縄文時代中期末頃に東日本を中心につくられはじめ、牛石遺跡も同じ傾向にあって初源期のものです。ただし短期間で後期までには終わっています。そして牛石遺跡では環状列石をつくった人たちの生活の場つまりムラはみつかっておらず、祭祀場であったといえます。環状列石に粗密があるということはそこを担った人たちが異なっているつまり複数の集団によってつくられたものと考えられ、熱心な人たち、ふまじめな人たちなどそれぞれの性格が表れているのかもしれません。そして短期間とはいえ100年以上は継続してつくられており、春秋分のイベントにむけて石を集めて列べ続けていたと、さらに各集団での出来事をたとえば墓地等を石を列べることで表現したりと、いわばその地域にくらす縄文人たちの出来事を石で表現して積み重なった歴史を意味する記念物であるとはいえないでしょうか。その中には活動中の富士山や季節を教えてくれる三ッ峠山を環状列石に取り入れているとも思えます。みなさんはどのようにお考えでしょうか?

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