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北杜市(ほくとし)では旧石器時代(きゅうせっきじだい)(土器(どき)を使用(しよう)する以前(いぜん)の時代(じだい))の石器(せっき)が発見(はっけん)されていますから、山梨県(やまなしけん)の地域(ちいき)には、かなり古くから人々(ひとびと)が暮(く)らしていたことがわかります。
縄文時代(じょうもんじだい)には、八ヶ岳(やつがたけ)山麓(さんろく)を中心に多くの遺跡(いせき)があり、美(うつく)しい縄文(じょうもん)土器(どき)がたくさん見つかっています。甲府(こうふ)盆地(ぼんち)の南にある銚子塚(ちょうしづか)古墳(こふん)は、4世紀前半頃(せいきぜんはんころ)に築(きず)かれた全長(ぜんちょう)169mの前方後円墳(こうえんふん)で、この地域(ちいき)を支配(しはい)していた豪族(ごうぞく)のお墓(はか)だと考えられています。奈良(なら)時代(じだい)の都(みやこ)、平城京(へいじょうきょう)の遺跡(いせき)から発掘(はっくつ)された木簡(もっかん)(木で作られたノート)には、甲斐(かい)(山梨県(やまなしけん)の昔(むかし)の呼び名(よびな))国山梨(やまなし)郡(ぐん)から朝廷(ちょうてい)に「くるみ」を送(おく)った記録(きろく)が残(のこ)されています。

鎌倉(かまくら)時代(じだい)に、甲斐(かい)の国にいた源氏(げんじ)の一族(いちぞく)の中で武田(たけだ)氏(し)の力が増(ま)し、16世紀(せいき)初(はじ)めに武田(たけだ)信虎(のぶとら)によって甲斐(かい)の国は統一(とういつ)されました。信虎(のぶとら)の息子(むすこ)が武田(たけだ)晴信(はるのぶ)(信玄(しんげん))です。
信玄(しんげん)は、甲府(こうふ)盆地(ぼんち)を水害(すいがい)から守(まも)るために、釜無川(かまなしがわ)・御勅使川(みだいがわ)の流(なが)れを変(か)えたり、信玄(しんげん)堤(つつみ)を築(きず)いたりするなど、大規模(だいきぼ)な治水(ちすい)工事(こうじ)を行いました。現在(げんざい)の甲府(こうふ)の町を躑躅が崎(つつじがさき)の館(やかた)(現在(げんざい)の武田(たけだ)神社(じんじゃ))を中心とした城下町(じょうかまち)として整備(せいび)し、また金山などの開発(かいはつ)にも力を入れました。
その一方で信玄(しんげん)は戦(いくさ)も上手で、いまの長野県(けん)から静岡県(しずおかけん)、愛知県(あいちけん)、岐阜県(ぎふけん)、群馬県(ぐんまけん)にまで及(およ)ぶ広大な地域(ちいき)を支配(しはい)し、もう少し長生きすれば全国(ぜんこく)を統一(とういつ)するほどの勢(いきお)いをもった戦国(せんごく)時代(じだい)を代表(だいひょう)する武将(ぶしょう)です。
長い歴史(れきし)を持(も)つ山梨県(やまなしけん)ですから、さまざまな分野でたくさんの偉人(いじん)(すぐれた仕事(しごと)をなしとげ、多くの人から尊敬(そんけい)されている人。偉大(いだい)な人。)がいます。その中で一部(いちぶ)をご紹介(しょうかい)しましょう。
安房(あわ)の国(現在(げんざい)の千葉県(ちばけん))に生まれました。16歳(さい)で出家をし、32歳(さい)のときに「法華経(ほっけきょう)こそ唯一(ゆいいつ)の成仏(じょうぶつ)の法(ほう)」と説(と)いて日蓮宗(にちれんしゅう)を開(ひら)きました。鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)や他(た)の宗派(しゅうは)から迫害(はくがい)されたが、1274年に招(まね)かれて身延山(みのぶさん)に移(うつ)り、その教えは身延(みのぶ)から関東(かんとう)一円に広がりました。
中萩原(なかはぎわら)村(現在(げんざい)の甲州(こうしゅう)市)出身(しゅっしん)の両親(りょうしん)の娘(むすめ)として東京に生まれました。20歳(さい)の時、苦(くる)しい生活の中で「闇(やみ)桜(ざくら)」を発表(はっぴょう)し、23歳(さい)のとき、近代(きんだい)文学の傑作(けっさく)とされる「たけくらべ」や「にごりえ」などを発表(はっぴょう)するが翌年(よくとし)、肺結核(はいけっかく)のため24歳(さい)で生涯(しょうがい)を閉(と)じています。
武田(たけだ)氏(し)18代(だい)の信虎(のぶとら)の子として積翠寺(せきすいじ)(現在(げんざい)の甲府(こうふ)市)に生まれました。水害(すいがい)から甲府(こうふ)盆地(ぼんち)を守(まも)るため多くの土木工事(こうじ)を行ったり、騎馬(きば)隊(たい)を率(ひき)いて甲斐(かい)・信濃(しなの)、駿河(するが)など7カ国へと支配(しはい)を広げたが病気(びょうき)のため、天下統一(とういつ)への夢(ゆめ)は途中(とちゅう)で終(お)わっています。
正徳寺(しょうとくじ)村(現在(げんざい)の山梨(やまなし)市)に生まれ、横浜(よこはま)鉄道(てつどう)、東武(とうぶ)鉄道(てつどう)など鉄道(てつどう)会社24社に関係(かんけい)し、鉄道(てつどう)王と呼(よ)ばれました。旧制(きゅうせい)武蔵(むさし)高校(武蔵(むさし)大学)を設立(せつりつ)した人です。
この他(ほか)、実業家(じつぎょうか)で、阪急(はんきゅう)電鉄(でんてつ)を始(はじ)め、住宅地(じゅうたくち)開発(かいはつ)なども行った「小林一三」<1873(明治(めいじ)6)-1957(昭和(しょうわ)32)年>や、県庁(けんちょう)や県民(けんみん)会館(かいかん)も設計(せっけい)した学者(がくしゃ)の「内藤(ないとう)多仲(たちゅう)」<1886(明治(めいじ)19)-1970(昭和(しょうわ)45)年>、芸術家(げいじゅつか)としては、歌舞伎(かぶき)界(かい)の初代(しょだい)「市川団十郎(だんじゅうろう)」<1660(万治(まんじ)3)-1704(元禄(げんろく)17)年>なども偉人(いじん)として知られています。
山梨県(やまなしけん)に伝(つた)わる民話(みんわ)としては、全県(ぜんけん)的(てき)に伝(つた)わっている「甲斐(かい)の湖(みずうみ)」や「デイラボッチ」、北杜(もり)市に伝(つた)わる富士山(ふじさん)と八ヶ岳(やつがたけ)が背比(せいくら)べをした話「山の背(せ)くらべ」、甲府(こうふ)市に伝(つた)わる「目だらけの化物(ばけもの)」などのお話があります。
方言は(その地方だけで使(つか)われている言葉(ことば)や言葉(ことば)使(つか)い全体(ぜんたい)のこと)隣り合(となりあ)った地域(ちいき)で同じように使(つか)われている言葉(ことば)もあれば、峠(とうげ)一つ越(こ)えると違(ちが)うなど、調(しら)べてみると面白(おもしろ)いことがわかります。県立(けんりつ)博物館(はくぶつかん)や北杜(もり)市大泉(おおいずみ)にある金田一春彦(はるひこ)記念(きねん)図書館(としょかん)に行くと、いろいろな地域(ちいき)の方言を実際(じっさい)に耳で聞くことができます。
山梨県(やまなしけん)の郷土(きょうど)芸能(げいのう)として有名(ゆうめい)な「ずいずいずっころばし」の歌は、歌詞(かし)の中に「茶壷(ちゃつぼ)に追(お)われて…」という言葉(ことば)が出てきます。江戸(えど)時代(じだい)、京都(きょうと)の宇治(うじ)から江戸(えど)まで、将軍(しょうぐん)のためのお茶を壷(つぼ)に入れて運(はこ)びました。これをお茶壷(ちゃつぼ)道中といいます。この道中は中山道から木曾(きそ)街道(かいどう)、甲州(こうしゅう)街道(かいどう)を通って、夏の間は、涼(すず)しい富士山(ふじさん)のふもとの勝山(かつやま)城(しろ)(都留(つる)市)で保管(ほかん)して、江戸(えど)まで運(はこ)びました。「ずいずいずっころばし」は、その道中の様子(ようす)を歌ったわらべうた(昔(むかし)の童謡(どうよう))です。わらべうたも子どもの間に伝(つた)えられてきた郷土(きょうど)芸能(げいのう)の一つです。

世界(せかい)的(てき)にも有名(ゆうめい)な絵「種(たね)をまく人」。この絵を描(か)いたミレーは、フランスの北西部(ほくせいぶ)の小さな村の農家(のうか)の子として生まれました。フルネームは、ジャン=フランソワ・ミレーといいます。絵を描(か)くことが幼(おさな)い頃(ころ)から得意(とくい)だったミレーは、22歳(さい)の時にパリに出て絵を学びます。そして34歳(さい)の時パリから60kmほどのところにあるバルビゾン村に移り住(うつりす)み、生涯(しょうがい)、農民(のうみん)の姿(すがた)や暮(く)らしを題材(だいざい)に絵を描(か)いていきます。「種(たね)をまく人」は、バルビゾンでミレーが最初(さいしょ)に描(か)いた大きな絵で、ミレーの名前を一躍(いちやく)有名(ゆうめい)にしました。農業(のうぎょう)の盛(さか)んな山梨県(やまなしけん)にふさわしいと、1977年に県立(けんりつ)美術館(びじゅつかん)の開館(かいかん)を機(き)に山梨県(やまなしけん)が買ったものです。世界(せかい)的(てき)な名画を買ったというニュースは、当時大きな話題(わだい)となりました。県立(けんりつ)美術館(びじゅつかん)にはミレーの作品(さくひん)のほか、バルビゾン派(は)とよばれるミレーの仲間(なかま)の画家の絵が多く所蔵(しょぞう)されています。
(出典(しゅってん):ふるさと山梨(やまなし))
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