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ページID:113471更新日:2024年8月1日
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二之宮遺跡は、甲府盆地東部の金川扇状地末端付近に位置する遺跡です。遺跡の東側には、全国でも屈指の巨石横穴式石室を持つ姥塚古墳(6世紀後半)があります。
1979(昭和54)年から1981(昭和56)年にかけて行われた中央自動車道建設に伴う発掘調査では、古墳時代・平安時代を中心に392軒の住居跡(縄文時代1軒、弥生時代3軒、古墳時代157軒、奈良時代24軒、平安時代198軒、時期不明9軒)や溝などが発見されました。
なお、国道137号を挟んで西側を二之宮遺跡、東側を姥塚遺跡と呼称していますが、本来は一つの遺跡と考えられています。
須恵器を取り上げたトピックス No.0016、No.0185、No.0247、No.0433、No.0462、No.0497、No.0539
所在地:笛吹市御坂町二之宮
時代:縄文時代~平安時代
報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第23集、1987(昭和62)年
調査機関:山梨県埋蔵文化財センター
今回取り上げるのは、二之宮遺跡西71号住居跡から出土したふたつの土器についてです。どちらも同じかたちをしていますが、ひとつは須恵器(すえき)、もうひとつは土師器(はじき)です。
須恵器は、古墳時代中期の4世紀末頃に大阪府南部の陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)で生産が始まった灰色の焼き物です。やがて全国各地に運ばれ、山梨でも集落遺跡や墳墓から出土しており、すでに他のトピックスでも紹介されています。
この住居跡から出土している須恵器は、「(はそう)」と呼ばれている土器で、胴の部分にあけられた穴に細い管を差し込み、液体を注いだと考えられています。二之宮遺跡では他の住居跡からも出土していますが、いずれも陶邑窯で焼かれた5世紀中頃の型式のものとみられます。は県内では他にも5世紀後半にかけて、高部宇山平遺跡(中央市)や岩清水遺跡(甲府市)などで出土しています。
愛知県の猿投窯(さなげよう)など東海地方では、陶邑窯での生産開始からやや遅れて、5世紀前半から須恵器生産が始まり、その後地方でも生産を開始しますが、今のところ山梨では6世紀後半から末頃になってようやく生産が始まり、それまでの須恵器の多くは陶邑窯産か静岡県西部の湖西窯(こさいよう)産と見られますが、猿投窯産もあります。
一方、いっしょに出土している土師器(はじき)のですが、これは須恵器のをまねて作ったもので、表面が丁寧に磨かれており、須恵器の質感を再現しているようにも見えます。
土師器は縄文土器、弥生土器の技術を受け継いだ赤褐色の素焼きの土器で、平安時代にかけても生活用具である土器の多くは土師器です。
山梨での須恵器生産開始が他地域より遅い理由については、粘土が適していないなどいくつか考えられていますが、見方を変えれば土師器生産の技術が高かった(力を入れた)とも考えられ、その技術は奈良・平安時代にかけて「甲斐型土器」として確立されていきます。
今回紹介した2点のは、山梨県立考古博物館に常設展示されています。いっしょに並んでいると兄弟のように見えますが、そこには地方での土器生産技術の一端が垣間見えます。
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