ページID:113012更新日:2024年2月22日

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No.541 根子の道供養碑

「御内八海道供養碑」

 身延町根子(ねっこ)、県道416号の傍らに高さ138cmの石碑が建っています。町の文化財に指定されている「御内八海道供養塔」です。嘉永元年(1848)8月、隣村の大磯小磯(おおいそこいそ)村の「講中」の本願により建立されました。50両以上の費用がかかっています。

内八海道供養塔 (1)

 建立に際して寄付をした者の名前と金額が表面に刻まれています。現身延町域の芝草・三沢両村、現市川三郷町の四尾連(しびれ)村の面々に、講中として折門(おりかど)・八坂(はっさか)・瀬戸・四尾連・北川各村がみえます。

 建立の世話人は本栖村の八右衛門ら3名、石工は岩欠(いわかけ)村(どちらも身延町)の望月永左衛門、書は四尾連村の弥重郎とある。根子周辺の人々の尽力によって建てられたといえますが、中には河内地方(西八代郡・南巨摩郡一帯)に勢力を持っていた大我(たいが)講のメンバーも名を連ねています。

 大我講は天保10年(1839)に市川大門村(現市川三郷町)の大寄友右衛門(兌孝)が開いた富士講で、同14年忍草(しぼくさ)の八海(現忍野八海)を再興したことで知られています。

内八海の巡礼ルートとして

 「内八海」とは今の富士五湖に四尾連湖と明見(あすみ)湖(富士吉田市)・須戸(すど)湖(静岡県富士市)を加えた八つの水場です。文献によっては須戸湖を除いて、泉瑞(せんずい、富士吉田市)、もしくは長峰濁池(上野原市)を内八海の一つとします。この内八海は、身体を浄める水垢離(みずごり)を行う、富士信仰に基づく修行の場、霊地でした。

 さて、道供養碑がある根子は、険しい山道ですが、精進湖・本栖湖と四尾連湖を結ぶ巡礼ルートに位置します。江戸時代後期に不二道(ふじどう)の教えを説いた道者・小谷三志(こたにさんし)は、本栖湖から四尾連湖へ通ずる「ねつこ越」という道があるといいます(『裾野八湖・豆州修行記』)。

根子位置図

 この不二道に深く帰依して、文政6年(1823)、はるばる大坂から富士山登拝と内八海巡礼の旅に出たのが、鍛冶屋でありながら狂歌師の芙蓉亭蟻乗(ふようていぎじょう)です(「富士日記」)。蟻乗は本栖湖から四尾連湖へ向かう際、難所ばかりの道で茶店もないことを聞き、馬子を雇いました。その馬子はまだ21、2歳の娘、くわえたばこで立ったまま小用をすませるなど行儀が悪く、言葉遣いも荒い。そんな蟻乗は関東と上方の女性の気風の違いを考えているうちに四尾連湖に着き水垢離を済ませます。しかし帰り道、蟻乗はちゃっかりとこの娘の家に泊まりました。このような富士信仰の者の往来があったからこそ、内八海の巡礼ルートの安全を祈願して道供養碑が建てられたのでしょう。しかし、近代に入ると信仰登山がレジャーに代わり、内八海の巡礼は衰えます。

 根子の大正時代の様子を記したのは、文人・大町芳衛(よしえ、桂月)です(『絵入訓話』)。桂月は本栖湖から根子にたどり着き旅館に泊まります。通されたのは部屋というよりも物置のような所で、旅館の息子が弾くオルガンの音や、蒸し暑さ、蚤(のみ)の多さに辟易します。この旅館では年間の客は数十人にすぎず、内八海巡礼の道者も年に1組あるかどうかという状況だったといいます。

四尾連湖

内八海の一つ四尾連湖

道供養碑の復活

 戦後の道路改良工事により、道供養塔は何度も移され、しまいには所在不明となってしまいました。ところが平成16年(2004)9月、根子の字山伏屋敷地内で土砂の中から発見されます。そして地元では奉賛会をつくり現在地に立て直したといいます。その場所は交通量が多いとはいえない県道ですが、道供養塔は精進湖・本栖湖を結ぶ歴史的な信仰ルートをしのぶ歴史資料となっています。

内八海道供養塔 (2)

道供養碑を左に見て道を奥へ行くと、三ツ沢集落を経て、峠越えで精進湖へ抜ける

 

 

 

 

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