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更新日:2017年9月19日

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遺跡トピックスNo.470 二ッ塚1号墳―閉塞石との調査バトル(甲斐市)

甲斐市の遺跡

0218金の尾遺跡-土偶-
0228金の尾遺跡-紡錘車-
0273金の尾遺跡-4号住居-
0398金の尾遺跡-県内最古のガラス玉-
0245唐松遺跡-炉のない家-
0363唐松遺跡-炉と土偶-
0253竜王2号墳-馬具にみる古代の技術-
0470二ッ塚1号墳-閉塞石とのバトル-
 

 

所在地:甲斐市竜地(旧地名:北巨摩郡双葉町竜地字二ッ塚2383番地)
時代:古墳~平安
報告書:1978山梨県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書―北巨摩郡双葉町地内1―
調査主体:山梨県教育委員会

甲府盆地の西、現在は甲斐市となっていますが、市町村合併が行われる前の町名でいうと双葉町という町が存在していました。その双葉町から甲府市方面へ南東に緩やかに傾斜する台地があり赤坂台地と呼ばれています。今から41年前の1976年(昭和51年)にその台地を中央自動車道が貫くことになり、道路建設により幾つかの古墳が失われることになったのです。当然記録保存のための発掘調査の必要性が生じました。それらの古墳の中で墳丘の直径が20mを超えるという最も大きな古墳が、7世紀前半代に築造されたと考えられる旧双葉町に存在した二ッ塚1号墳です。現在の赤坂台地周辺は響が丘等宅地化の進行が凄まじいですが、当時は一面桑畑か雑木林だけでした。

位置図

古墳は後世にかなり破壊されており、石室の天井石や側壁の上半分が失われていたものの、石室の下半分は保存状態もよく、馬具、鉄族、直刀、金環、ガラス玉、須恵器などが出土しました。今回は公式に撮影された写真ではなく、プライベートな写真を使用しながら横穴式石室の入口(羨門:せんもん、羨道:せんどう)のことをお話しします。

古墳の中でも古い時代(3世紀~5世紀代)のものは、墓に竪穴を掘り遺体を埋葬する竪穴式石室が主流で、埋葬も一度を原則とする個人墓でした(大丸山古墳、甲斐銚子塚古墳、丸山塚古墳等)。しかし古墳も新しい時代(6世紀~7世紀代)になると墓に横穴を掘る横穴式石室(姥塚古墳、加牟那塚古墳等)となり、入口を作って複数回埋葬が可能な家族墓的なものになっていきました。この入口にあたるところが羨門(せんもん)です。

休憩中

写真は、発掘調査の休憩時間にくつろぐ調査員達ですが、5名の調査員のうち、左の4名が寄りかかっている大きめの石の範囲が古墳の入口(羨門)になります。羨門の後ろには人頭大の石が積まれており、その奥に大きな横長の石が横たわっているのが判ります。調査員が寄りかかっている場所から横長の石までの範囲が、遺体を埋葬する奥の広い場所(玄室:げんしつ)までの通路(羨道:せんどう)で、その羨道を埋め尽くし塞いでいるのが閉塞石(へいそくせき)です。

遺体を追葬する時は、その都度、この閉塞石を外すわけですが、やはり墓の内部に人が簡単には侵入できないように、埋葬が終わると再度閉塞石はしっかりと頑丈に積まれます。

バトルの様子
写真は調査員が閉塞石を測量しながら取り外している様子ですが、もともと簡単には取り外せないように積まれている石ですから、調査員がその解体に苦戦している姿がよくわかります。丸太が2本置いてありますが、石を動かす時のテコに使うつもりだったのでしょう。また測量が終わった石を足で蹴って動かそうとしているようですが、動くはずもありません。結局、調査員はかなりの時間、閉塞石とバトル(闘い)を続けましたが、大きな石は動かせずに諦めることとなりました。古代の人々は、いったいどうやって何度も石を取り出しては積み直すことが可能だったでしょうか?

 

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