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ページID:26339更新日:2017年5月30日

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遺跡トピックスNo.0203鰍沢河岸跡(富士川町)

富士川町の遺跡

  • 0005鰍沢河岸跡-泥めんこ-
  • 0025鰍沢河岸跡-礎石建物跡・井戸-
  • 0027鰍沢河岸跡-石垣・粘土枠遺構-
  • 0030鰍沢河岸跡-口留番所跡-
  • 0035鰍沢河岸跡-道・区画-
  • 0047鰍沢河岸跡-胞衣壺-
  • 0048鰍沢河岸跡-磁器・泥めんこ-
  • 0068鰍沢河岸跡-文政の大火-
  • 0092鰍沢河岸跡-目薬瓶-
  • 0113鰍沢河岸跡-元禄一分判金-
  • 0117鰍沢河岸跡-文政の大火と磁器-
  • 0188鰍沢河岸跡-荷物置き場-
  • 0203鰍沢河岸跡-竹製の水道管-
  • 0208鰍沢河岸跡-陶器製湯たんぽ-
  • 0242鰍沢河岸跡-御蔵台-
  • 0270鰍沢河岸跡-うさぎ文様の茶碗-
  • 0351鰍沢河岸跡-お茶碗にみるものがたり-
  • 0359鰍沢河岸跡-統制番号製品-
  • 0015町屋口遺跡-水路・道路-
  • 0291町屋口遺跡-明治時代の磁器-
  • 0360町屋口遺跡-河岸お蔵道-
  • 0114青柳河岸跡-石垣-
  • 0158平野遺跡-焼失住居跡-
  • 0375鰍沢河岸跡-泥めんこ-

川の港、鰍沢河岸跡

0203_鰍沢河岸跡:空撮

〔写真〕平成16年調査地点

左手が国道52号、写真奥が南アルプス市方面

鰍沢河岸は、江戸時代に甲信地域の各地から集めた大量の年貢米を江戸へ運び出すために富士川沿いに開かれた、いわば川の港です。また塩をはじめとする様々なものを甲信地域に運び入れる役割をも果たしていました。

所在地山梨県富士川町(鰍沢町)1374-5外

時代近世・近代

調査機関山梨県埋蔵文化財センター

報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書

第148集1998年刊行

第224集2005年刊行

第238集2006年刊行

第245集2007年刊行

第254集2008年刊行

石垣の脇から竹で作った水道管を発見!

0203_鰍沢河岸跡:竹樋全体

〔写真〕竹樋(たけひ)が見つかったところ

石垣の脇を掘り進めると、石垣に沿った形で‘竹樋(たけひ)’が見つかりました。‘竹樋(たけひ)’というのは、竹で作られた、水を通す管のことで、今で言う水道管のことです。甲府城下町などでは様々な場所で‘木樋(もくひ)=木で作られた水道管’が見つかっており、上水道が発達していたと言われています。

鰍沢河岸跡で見つかった竹樋(たけひ)は文政の大火(文政4年:1821年)で焼かれた地面を掘って作られているので、それ以降に設置されたものです。ただし付け替えされていることも考えられることから、それ以前から使われていた可能性もあります。

なぜ竹が使われたんだろう・・・

0203_鰍沢河岸跡:竹樋継手

〔写真〕竹樋(たけひ)をつなぐジョイント

竹は木に比べて腐りやすいので、管としては‘木樋(もくひ)’の方が耐久性があり、出土例からしても一般的なものであったと考えられます。

とすると、鰍沢河岸跡ではどうして竹が使われていたのでしょうか・・・

江戸の遺跡では、水道本管(木樋)からそれぞれの屋敷に水を引くのに‘竹樋(たけひ)’が使われていた例もあります。また松本市にある松本城や、その城下町では、鰍沢河岸跡と同じ様な‘竹樋(たけひ)’が見つかっています。鰍沢河岸跡の近くには、松本藩の米蔵(こめぐら)があり、松本からの人の行き来があったことを考えると、もしかすると松本藩からこの‘竹樋(たけひ)’を使う文化が伝わったのかも知れません。

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