ページID:3769更新日:2019年2月1日

ここから本文です。

常設展・豆知識

豆知識6・黒曜石 

火山活動でできる天然のガラス、黒曜石(こくようせき)。火成岩の一種で黒色透明、割ると鋭利な刃ができるので、縄文時代まで石器の材料として好んで使われました。

原産地によって石質が違う上に産地も限られているので、黒曜石器の分布は先史時代の交易を知る手がかりになります。

黒曜石原石(天神遺跡)
原石(北杜市天神遺跡)

ナイフ形石器(丘の公園第2遺跡)105150
ナイフ形石器(北杜市丘の公園第2遺跡)

山梨県からは黒曜石(原石)は採れません。では、県内遺跡から出土する黒曜石の原産地は?と言うと、長野県和田峠産が中心です。が、一部に伊豆七島の神津(こうづ)島産があります…。

氷河期でも伊豆七島とは地続きになることはありませんでした。海を越え山を越え、この山梨県に入ってきたことになります…。

縄文時代は交易が考えられますが、旧石器時代では直接神津島に行ったグループが持ち込んだ可能性があります(勿論「交換」もありえますが)。旧石器人は広域遊動をしているので、神津から八ヶ岳という移動ルートもありえます。

横針前久保遺跡(北杜市)では、この地点からは和田峠産の、この地点からは神津島産のというように、産地ごとにある程度のまとまりを確認することができます。このことから、この遺跡には異なる複数の集団が関わっていた、当時の人々が黒曜石の産地をはっきりと認識していたなどのことが考えられます。

神津島産の黒曜石は、船を操る旧石器人の姿を連想させます。

当館エントランスホールでは、黒曜石原石を自由に触って感触を確かめることができます。

豆知識5・土師器と須恵器 

縄文土器や弥生土器に対し、古墳時代の土器は土師器(はじき、写真左)と須恵器(すえき、写真右)に大別されます。簡単に言うと、弥生土器の後継者である土師器に対し、朝鮮半島から伝わった新しい製法技法による須恵器。野焼きによる土師器に対し、窯(かま)焼きにより高温で焼いた須恵器です。赤褐色や暗褐色の土師器に対し、灰色の須恵器という色の違いや須恵器が釉(うわぐすり)を施したように見える(自然釉)のも、この温度の違いによります。

常設・土師器

常設・須恵器(東山南遺跡)

さて、「S字状口縁台付甕(えすじじょうこうえんだいつきかめ)」(通称「S字甕」注1)と呼ばれる土師器があります。これが、ある日(時期)を境に県内から大量に出土(注2)します。このS字甕は濃尾平野を中心とする地域で発達した土器、それがある日(時期)を境に大量に…ということは、人の移動、東海系文化を持った人の移動を意味します。

この県内最古のS字甕、つまり東海系の流入を200年前後と想定する研究者もいます。200年前後とは邪馬台国(やまたいこく)と狗那国(くなこく)の抗争、そして女王卑弥呼(ひみこ)…の時期になります。年代については研究者の統一を見ませんが、畿内の前方後円墳と東海の前方後方墳という古墳分布(古墳時代初期)と合わせて、S字甕の研究が県内歴史やヤマト政権の成立過程の解明に大きな手がかりになっているのは確かなことです。

一方、400年代前半に伝わった須恵器は、まず大阪南部の陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)で大規模な生産が始まりました(注3)。県内最古の窯跡は600年代初めの下向(しもむこう)窯跡(笛吹市境川町)、段階を追って地方でも生産が開始されたわけです。初期の須恵器は渡来人的要素が色濃く反映された形が多く見られます。例えば、現在のコーヒーカップと見間違うかのようなものも…。しかし日本人の好みに合わなかったのでしょうか?淘汰(とうた)され、姿を消していきます。また、須恵器は丈夫で水を漏らしにくいという長所がある反面、直接火にかけると割れてしまうため、煮炊きには土師器が用いられました。この新型土器である須恵器は、土師器と比べると地域差が少ないため、製品の形態や技法の変遷から遺跡の年代を決める重要な役割を果たしています。

注1口縁部の断面(の形)が「S」の字に似ていることから「S字状口縁」かつ、台付きの甕であることから「S字状口縁台付甕」

S字状口縁台付甕(榎田遺跡、甲府市)

S字甕・拡大

注2県内最古のS字甕は米倉山(こめくらやま)B遺跡(甲府市)出土。米倉山は曽根丘陵の一支丘(考古博物館南西)で、旧石器時代から古墳時代までの遺跡が多数所在する。県内最古の小平沢(こびらさわ)古墳(前方後方墳)は米倉山の中腹、標高320m付近。滝戸川を隔てて大丸山古墳や甲斐銚子塚古墳(ともに前方後円墳)が存在する。

注3県内最古の須恵器も米倉山B遺跡。400年代前半に大阪から運ばれたものであり、生産開始と余り時間差がなく山梨県に入ってきたと言える。

豆知識4・有孔鍔付土器 

およそ1万年続いた縄文時代は、早期、前期、中期、後期、そして晩期などの時期に分けられ、土器も各時期の発達に伴い器形や文様などに変化があります。形で言えば、大型の土器や小型の土器、底のとがった土器(尖底、せんてい)や丸底、平底のもの、そして深鉢、壺、甕(かめ)、円筒形、急須形などです。地域差もあるため、各地で細かな式名(曽利1.式、曽利2.式など)が設定されています。

有孔鍔付土器(安道寺遺跡)

有孔鍔付土器拡大

さて、写真も縄文土器、有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器(中期、甲州市安道寺遺跡)です。土器の口の部分に孔(あな、数個から20~30個、直径5mm程度)が空けられ、その下に鍔がついていることから、そう呼びます。長野県や山梨県を中心とした中部高地で発達盛行し、やがて東日本一帯に広がっていきます。

では、この孔の意味は?

に2つの説があります。

1つが太鼓説。太鼓の皮を張る際に、結びつけるための孔である。もう1つが酒造具説。孔は果実が発酵する際のガス抜き栓である。特に上記の土器にはヘビの文様が…。

有孔鍔付土器は中期終末(約4000年前)には作られなくなります。代わりに登場したのがポットや急須のような形をした注口土器。したがって、有孔鍔付土器には液体が入れられていた可能性が高いこと、小孔に栓をした場合に現れるこすれや小孔の縁が破損している例がほとんどないことから、酒造具説を強く唱える学者もいます。

縄文人はこれで酒をつくって飲んでいたのか、太鼓として演奏したり踊ったりしていたのか、単なる変わった形をした入れ物か、はてまた全く別の使われ方がされたのか、実物を見ながら勝手に想像するのもおもしろいかもしれません。

注口土器(中谷遺跡)

注口土器2(中谷遺跡)

注口土器(後期、都留市中谷遺跡)

豆知識3・局部磨製石斧 

常設・局部磨製石斧(横針前久保遺跡)

名前は局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ、北杜市横針前久保遺跡)。刃の部分だけがきれいに磨かれた県内最古の石器で、3~4万年前だと考えられます。

3~4万年前、つまり旧石器時代です。

磨製石器=新石器時代、日本に当てはめると縄文時代以降、それ以前の旧石器時代は打製石器のみである!という定説を覆したのがこの局部磨製石斧です。長野県をはじめ、県外遺跡からも出土していますが、世界では日本とオーストラリアでしか見つかっていません。「環状ブロック群」と呼ばれる後期旧石器時代の遺構と合わせて、今から3万年前以上もの昔、地球上の先進地帯はこの日本であった!という学説の根拠にもなっています。

オオツノシカやナウマン象の解体用の道具、なめし作業や木材加工の道具など、様々な見方がありますが、その使途については今後の研究が待たれるというのが正直なところでしょう。

旧石器時代の磨製石器、その磨き具合を実物でご確認ください。

横針前久保遺跡…現在の八ヶ岳パーキングエリア(中央道上り線)。旧パーキングエリアの東側に位置し、改修に伴って発掘調査が行われた(H9年)。外壁に3万年前の生活の様子が描かれている。

環状ブロック群…ブロックとは石器が集中する地点のこと。そのブロックが円形を描き、直径80mの大規模なものから10m前後の小さなものまで存在する。ブロックは住居を示すとともにゴミ捨て場とする説が、また、環状ブロック群は大型獣の狩猟のために小さな集団が集まった大集落とする説がある。群馬県下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡など。

豆知識2・三角縁神獣車馬鏡 

三角縁神獣鏡(直径23cm前後)は、鏡の縁(の断面)が三角形で(鏡背面=裏面に)神像や獣像の文様があることからそう呼ばれます。

本当にこれが鏡なの?」文様のある背面部を展示しているため、そう思う方もいらっしゃいますが、展示品を裏返すと…。

考古博物館では、当時の原料比で再現した鏡(の表)も展示しています。今はさびてしまった鏡(展示品)も、当時は人やモノを映し出す、まさしく鏡でした。複製と見比べながら、1600年前の輝きをご想像ください。

さて、甲斐銚子塚古墳出土の「三角縁神獣車馬鏡(さんかくぶちしんじゅうしゃばきょう)」は、神像、獣像そして車馬像からそう呼ばれますが、この文様の外側に文字が刻まれています。「陳氏作鏡?青同有仙人不知?宜高官子宜孫?」です。

三角縁神獣車馬鏡

三角縁神獣車馬鏡(拡大)

は読み取ることができませんが、多くの研究から順に「用」「君」「寿」を当てはめることができます。簡単に言うと「この鏡を持つことにより、出世、子孫繁栄、長寿を得ることができる」という、まさしくおめでたい文章です。

甲斐銚子塚古墳と全く同じ鏡が備前車塚古墳(岡山市)などからも出土しており、いわゆる同型鏡(同じ鋳型をもとに作った鏡)と言います。卑弥呼の鏡か?については異論もありますが、これら同型鏡の分布がヤマト政権の政治や支配力をひも解く重要な手がかりになるのは事実です。

備考

は中心部から同心円状に鈕(ちゅう)、鈕座(ちゅうざ)、内区(ないく)、銘帯(めいたい)、外区(がいく)そして縁(ふち)とに分類されます。

  • 鈕…ひもを通す孔(あな)がある鏡のつまみ部分
  • 鈕座…鈕の周り
  • 内区…神像や獣像などの文様がある部分、鈕座や内区にある突起は乳(にゅう)
  • 銘帯…おめでたい文章などの語句が刻まれている部分
  • 外区…内区の外側、ギザギザや波線などの文様がある部分
  • 縁…断面の形で三角縁、斜縁(しゃえん)、平縁(ひらぶち)と呼ぶ

豆知識1・銀象嵌大刀 

銀象嵌大刀(稲荷塚古墳)

象嵌(ぞうがん)…金属・木材・陶磁器(とうじき)などの材料に模様を刻んで、他の材料、特に金・銀・赤銅・四分一(しぶいち)などをはめ込む技法、またその作品。(広辞苑)

甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園内にある稲荷塚(いなりづか)古墳から発見された刀(かたな)には、鍔(つば)や付属金具に銀線の文様がありました。銀で象嵌された刀、つまり「銀象嵌大刀(ぎんぞうがんたち)」です。

6世紀末に築造され7世紀前半まで追葬された稲荷塚古墳(1987年調査)からは武器や馬具、須恵器(すえき)などの副葬品がたくさん見つかりましたが、この銀象嵌大刀は県内では初めての発見でした。刃先は失われさすがにさびてしまっていますが、一部の銀線は残存しています。

さて、展示品の中に「鉄剣・鉄刀」というキャプションがあります。剣は諸刃(もろは)つまり両側で切れる(斬れる)のに対し、刀は片刃つまり片側のみ、剣と刀の違いです。

また、平安時代以後のものを「太刀」と記すのに対し、それ以前の古く用いられた直刀を「大刀」と記します。観覧時の豆知識としてご活用ください。

銀象嵌大刀…山梨県指定文化財、古墳時代のコーナーに展示

稲荷塚古墳の場所→甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園案内図(PDF:138KB)

但し、稲荷塚古墳は未整備

銀象嵌大刀・鍔(稲荷塚古墳)

銀象嵌大刀・柄頭(稲荷塚古墳)

 

このページに関するお問い合わせ先

山梨県観光文化・スポーツ部考古博物館 
住所:〒400-1508 甲府市下曽根町923
電話番号:055(266)3881   ファクス番号:055(266)3882

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?

このページを見た人はこんなページも見ています

県の取り組み

pagetop