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武者のぼり鯉のぼり職人・井上展弘さん写真1(トップ)

井上染物店 7代目当主

いのうえ のぶひろ

井上 展弘

5月5日の「端午の節句」は、奈良時代に中国から伝わった厄除けの風習で、日本では子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかるとともに母に感謝する“こどもの日”として祝われます。祝いの席に花を添えるのは、迫力満点の絵柄が特徴の武者のぼりや優雅に泳ぐ鯉のぼり。幟(のぼり)は江戸時代に立てられた旗指物や吹き流しが起源と言われ、武家の間で男子誕生の印として立てられたとされます。鯉のぼりは、商人などの間で武家の幟にならい鯉の幟を立てたことが始まりとされ、現代でも風物詩として街の景色を彩ります。
山梨県の富士川流域では、豊かな山々に育まれた支流が交わる立地から染物が根付きました。南アルプス市の井上染物店の現当主 井上展弘さんは、江戸時代から続く技法を守りながら、県内で唯一、本染甲州武者のぼり・鯉のぼりを作り続けています。

160年以上受け継がれる伝統の技

富士川街道沿いに店を構える井上染物店の創業は、江戸末期にまで遡ります。初代井上品兵衛が藍染めを始め、二代目の文左衛門が井上染物店としての基礎を築き、三代目豊松とともに、従来の藍染めに武者のぼりと鯉のぼりを取り入れました。当時は、家紋や屋号を染め上げる印染めが主流で、のぼりや旗、暖簾、半纏(はんてん)などを仕立て、家業を発展させてきました。その後、三代目豊松と四代目孫太郎の時代には最盛期を迎え、数十人の染め職人を抱えるまでの染物店へと成長しました。この頃から立体的で勇壮な姿に染め上げられた武者のぼりが評判となり、井上染物店で染められた武者のぼりは、「甲州武者のぼり」と呼ばれるようになります。その染色の技は、優秀な染め職人たちを率いた五代目豊、色褪せることのない独自の感性を発揮した六代目豊彦へと伝承され、平成6年(1994年)に「山梨県郷土伝統工芸品」の認定を受けました。現在染物店を営むのは、先人たちが繋いできた伝統と技術を受け継いだ七代目の井上展弘さん。昔ながらの染色技術を駆使した郷土伝統工芸品を製作しながら、時代に即した商品づくりにも日々励んでいます。

家族と乗り越えた苦難の日々

 Jリーグ創設でサッカーブームだった井上さんの少年期の夢は、プロサッカー選手。次男ゆえ、家業を継ぐということは考えたことがなかったといいます。しかし、高校生の時、兄が染物とは別の道へ進んだことをきっかけに、井上さんの意識が変わり始めます。高校卒業後は大学に進学するも、在学時に少しずつ父親の手伝いをするようになり、2004年、大学卒業と同時に染め職人の道を歩み始めました。
 作業を手伝いながら一から技術を学び始めた井上さんでしたが、しばらくして父親が体調を崩し一線を退くこととなったため、技術を習得しきれぬまま独り立ちしなくてはいけなくなりました。「右も左もわからない状態で失敗の連続でしたが、必死に父の姿を思い出しながら、見様見真似で作業を続ける毎日でした」と当時を振り返ります。そんな不安が募る井上さんを支えたのは、家族の存在でした。特に、祖母から学んだのぼりの要となる糊づくりは、井上さんが立体感の際立った染物を生み出す源にもなっています。そうした家族の協力のもと、時には徹夜をしながら苦難を乗り越えていきました。

巧みな手腕が光る染色作業

 丁寧に手作業で染め上げられる井上染物店の染物。その魅力を、「人の手から生み出される温かさにある」と井上さんは語ります。のぼり類など染物の工程は、祖母から学んだ糊づくりに始まり、布の不純物を取り除く精練、下絵写し、輪郭線を縁取る糊置き、鮮やかな色彩を表現するための豆汁(ごじる)の塗り付け、染付、色止めをして、最後に水洗いで糊を落として天日で干し、裁断、縫合と、完成までに緻密な作業工程を積み重ねます。一連の染色作業で井上さんが心がけていることは、「すべての作業に全力を注ぐこと。やりなおしが難しい染色作業では、一つでも手を抜くと必ずどこかでツケが回ってきます。一つずつ着実に作業をこなすことが、一番の近道です」と教えてくれました。
 中でも、糊置きの作業は、武将や鯉の鱗などの輪郭線をはっきりと浮き上がらせ、のぼりに存在感と躍動感を生む“のぼりの命”ともいえる重要な工程の一つ。糯米粉(もちごめ)と米糠(こめぬか)を配合し絶妙な粘度に仕上げた糊を用いて、下絵に沿って筆を走らせます。その後も温度や湿度の変化に気を配りながら手技を重ね、2週間以上もの時間をかけて完成を迎えたのぼりは、個性的なぼかしが効いた鮮やかな一品へと姿を変え、井上染物店独自の色合いを醸し出します。

移り変わる時代と伝え続けたい想い

 お客様から直接注文を受け製作を行う井上染物店ですが、近年のライフスタイルや住環境の変化によって、大きなのぼりの生産数は減少傾向にあります。そうした時代の変化を肌で感じてきた井上さんは、日常生活でも気兼ねなく使える手ぬぐいや靴、バッグなどの小物類を自身の代で新しく展開しており、工房横の店舗には色とりどりの染物商品が並べられています。また、今後の目標について、「自身の技術力を高め、先代たちが繋げてきた技術や想いを多くの人に広めていきたい」と語る井上さんは、本染甲州鯉のぼりを30cmサイズに仕上げた“室内用ミニ鯉のぼり”の「chiccoi(ちっこい)」や、甲州武者のぼりをコンパクトサイズに仕上げた“甲州ミニ武者のぼり”など、使い手のニーズと伝統技術をかけ合わせた商品開発にも力を入れています。
 他にも、近隣の小学生を工房に招き、伝統技術に触れられる職業教育体験に協力したり、女の子用の鯉のぼり製作の際には、お客様の要望を聞きながら色を決めて、オーダーメイドに近いのぼりを作ったりするなど、真摯に人と染物に向き合う姿が垣間見えました。「一つ一つ手作業で染めているため、風合いや表情が様々に表れる染物は、一つとして同じもがありません。大きな鯉のぼりを立てることは減ってきていますが、体験の場や身近な商品を通して、世紀を越えて伝わる技術と染物の良さを感じてもらえたら嬉しいです」。使命にも似た熱い想いを胸に、代々受け継がれてきた伝統技術とものづくりに対する姿勢を大切にしながら、これからも井上さんの挑戦は続いていきます。

作品紹介

企業情報

井上染物店

  • 住所

    山梨県南アルプス市古市場460

  • 電話番号

    055-282-1030

  • ホームページ

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