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ページID:66911更新日:2017年5月11日

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遺跡トピックスNo.0419_鳥居原狐塚古墳の赤烏元年銘鏡〔市川三郷町〕

市川三郷町の遺跡

  • 0004宮の前遺跡-埋甕-
  • 0184水呑場北遺跡-「おこげ」-
  • 0196宮の前遺跡-「χ字状把手」-
 

古墳の概要

0419map〔地図〕鳥居原狐塚古墳の位置

0419tomb鳥居原狐塚古墳

場所:山梨県西八代郡市川三郷町大塚

 

鳥居原狐塚古墳は、明治26年頃の開墾にともなって発見された古墳で、現在は18m×13mの方形で高さ1m程度の草地になってしまっていますが、本来は円墳であると考えられています。赤烏元年銘神獣鏡の他、銅鏡、直刀、剣、銅鈴、須恵器などが発見されています。昭和初期の報告から赤彩された竪穴式石室であろうことが推定されていますが、開墾に伴って破壊されており、詳しいことは良くわかっていません。

赤烏元年銘神獣鏡

0419mirror

赤烏元年銘神獣鏡(レプリカ:山梨県立考古博物館で展示中)

 

この神獣鏡は、この鳥居原狐塚古墳から発見された銅鏡で、中国産のものと言われています。直径12.5cm。内側には、四神四獣が配されており、四神像は立像と座像が四獣と交互に配されています。「赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅服者君候宣子孫寿万年」の銘があり、国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されています。中国の呉の年号である赤烏の銘がある鏡は国内でも出土例は少なく、この鳥居原狐塚古墳出土の鏡と兵庫県宝塚市安倉高塚古墳出土の赤烏七年銘の鏡くらいです。非常に珍しい鏡がなぜ山梨から出土したのかはわかっていませんが、当時の国際状勢は『三国志』よりわかっている部分もありますので、当時の中国の国内状況を中心に描いてみたいと思います。

 

赤烏元年という年。

赤烏は、中国三国時代の一国「呉」の年号で、その元年は西暦では238年に当たります。魏の年号で言えば、景初2年に当たる年です。この年、邪馬台国は魏に朝貢し、魏の明帝(曹叡・曹操の孫)より「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を与えられています。

当時、三国時代と言っても魏・呉・蜀の他に遼東半島から朝鮮半島中西部までを領有していた公孫氏による地方政権がありました。

邪馬台国による朝貢が可能になったのは、この公孫氏が、その景初2年=赤烏元年=238年に魏に滅ぼされ、楽浪郡・帯方郡(朝鮮半島中西部)がその支配下に入ったためと考えられています。

この公孫氏は、滅ぼされる以前の233年に呉の使者を切り捨て、首を魏に送り届けるということを行っています。公孫氏は238年魏に攻め入られた際、呉に援軍を求めているのですが、当然のごとく断られています。このため公孫氏と呉の外交関係はかなり希薄であったと考えられますので、公孫氏を通じて日本に赤烏元年銘の鏡が入ったとの理解は成立しがたいと言えます。

 

当時の日本の国内状況

『魏志』東夷伝では、まず、狗奴国は、邪馬台国の「女王に属せず」とあり、正始8年(247年)に至って邪馬台国と狗奴国が戦闘状態にあることが魏の帯方郡に報告され、張政という人物が邪馬台国に派遣されていることが見えます。

『三国志』は、魏・晋(魏から政権を引き継ぎ中国を再統一した王朝)を正統な王朝とみており、他の地方政権である呉・蜀を王朝と見なしていません。よって、呉・蜀に対する朝貢についてはあまり触れていないので、邪馬台国以外の朝貢が呉に対して有ったかどうかは史書からはわかりません。

しかしなんらかのルートを通じてこの赤烏銘神獣鏡は日本に入って来たことは間違いない事実です。

まとめ

1.238年に魏と敵対した公孫氏は滅び、朝鮮半島中西部以北は、魏の支配下となる。

2.これにより、邪馬台国は朝鮮半島を経由した魏への朝貢が可能になった。

3.238年に邪馬台国が「親魏倭王」の金印を下賜され、魏の冊封体制下に入った。

4.「倭」に統一される以前のこの時期の日本は、例えば邪馬台国以外の国として30ヶ国が魏志倭人伝の記述が見え、多数の勢力があった

5.こうした状況で、呉の鏡の存在は、呉と直接交渉を持った勢力が列島内にいたことを意味するのではないか。

 

余談になりますが、この鏡の「赤烏元年五月廿五日」の銘ですが、金属製品に書かれた「五月」や「丙午」は吉祥句で、定型文みたいなものです。三国志巻47呉書・呉主伝によれば、赤烏への改元は8月のことであり、5月は存在していませんので、この鏡が作られたのは間違いなく8月以降ということになります。

呉で作られた「赤烏元年銘鏡」は、呉より日本に渡り、最後には山梨の鳥居原狐塚古墳にいたりました。

その間の史書に語られず、歴史として残らなかった古代中国と日本での様々な事実を「鏡」は映し出していたのでしょうか。

 

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