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ページID:4634更新日:2017年3月14日

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埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0049曲淵家

昭和町の遺跡

0049本妙寺-旗指物-

武田氏の家臣で、昭和町押越(おしこし)の曲淵が発祥の地と伝えられています。その後、武川谷(武川町)に移住、武川衆として武田氏に仕え、武田氏滅亡後は徳川家康に従い壬午の戦いや関ヶ原の戦い、大坂の陣に参加し、慶長12年(1607)から元和2年(1616)までは、甲府城番の一員として守衛につきました。その後は徳川幕府の要人にとり立てられました。

曲淵吉景(まがりぶちよしかげ)は、武田信玄・勝頼親子に仕えていた武将です。吉景から数えて五代目にあたる「曲淵景衡」は、徳川家宣に仕え、従五位下下野守となり、常陸国・三河国を合わせて1650石を知行します。享保元年(1716)寄合から小普請支配となり、享保10年(1725)10月18日~享保12年まで甲府勤番の支配役(追手組)となります。

任期の終わった景衡は江戸に戻り、享保18年(1733)7月25日に没し(享年59)、四谷の栄林寺に葬られました。

旗指物

旗指物03

写真:旗指物

享保11年(1726)に奉納

本妙寺所蔵昭和町押越

 

写真3旗指物(写真2の一部拡大)

「奉納従五位下兼下野守源朝臣景衡自豪」


旗差物には、ところどころに茶色くくすんだ部分があります。地元では、「血染めの旗」とも呼ばれていますが、曲淵景衡が甲府勤番としての任期中の享保11年(1726)、吉景の命日に押越の本妙寺・八幡宮に詣で、旗指物二流(写真1・2)を寄進したものです。旗には、縫いつけた布に景衡の自筆で、「奉納従五位下兼下野守源朝臣景衡自豪」とあります。この寄進した旗指物とともに、願書も本妙寺に現存しています。

甲府勤番として赴任した景衡は旗指物を奉納し、先祖ゆかりの地に戻ってきたことを喜びつつ祖先に感謝の意を表したのではないでしょうか。

本妙寺(ほんみょうじ)

昭和町押越にある本妙寺(日蓮宗)は、武田家家臣曲淵吉景の屋敷跡にあり、吉景の出生の地でもあります。その後、吉景が江戸に移る際に妙徳寺と称し老母に譲りましたが、吉景法号「徳本院殿日起大居士」と母の法号「妙徳院殿日盛大禅尼」の二字にちなんで本妙寺と改称しました。お寺の脇には、若宮八幡宮が現在でも残っています。

本妙寺

写真:本妙寺昭和町押越

若宮八幡宮

写真:若宮八幡宮昭和町押越

清泰寺(せいたいじ)

平安時代に創建された古刹清泰寺は、北杜市白州町花水にある曹洞宗の寺院で、曲淵吉景・吉清・吉重の三代の墓所があります。

清泰寺

写真:曲淵家の墓(清泰寺)北杜市白州町花水

 

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