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ページID:36264更新日:2017年5月8日
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| 大月市の遺跡0013塩瀬下原遺跡-敷石住居- 
 
 0083塩瀬下原遺跡-土器・石器- 
 
 0227塩瀬下原遺跡-石皿- 
 
 0063大月遺跡-敷石住居- 
 
 0215大月遺跡-クリの炭化種子- 
 
 0314大月遺跡-石器- 
 
 0138原平遺跡-縄文時代早期末の住居- 
 0279御所遺跡-奈良・平安時代の竪穴住居跡- | 奈良・平安時代の小規模な集落跡ー御所遺跡ー
 御所遺跡から岩殿山〔いわどのさん。標高634メートル〕を望む 
 大月市街地の東端にある駒橋(こまはし)の地に御所遺跡はあります。江戸と甲斐国を結ぶ幹線道路として重要な役割を担ってきた甲州街道(国道20号線)ですが、近年の交通量の増加に伴い大月バイパスが建設されることになり、それに先立ち平成7(1995)年5月から9月にかけて発掘調査が行われました。その結果、縄文時代から中・近世まで幅広い年代の遺構や遺物が検出されました。 今回は、このうち、奈良・平安時代のこの地域の遺跡に一般的に見られる小規模な竪穴住居跡にスポットをあてて紹介します。 
 跡』1998(平成10)年3月刊 
 奈良~平安時代の竪穴住居跡
 
 8世紀頃のものと考えられる7号竪穴住居跡 
 竪穴住居は、一般的には平安時代の末頃まで庶民の住居として利用されていました。奈良・平安時代になると、形は方形が中心となり、壁際にカマドを設けるのが一般的となりました。写真の7号竪穴住居跡は調査区のほぼ中央部に位置しており、その大きさは南北に約5メートル、東西に約6メートルと、この遺跡から発見された8つの竪穴住居跡の中では最も大規模なものです。 カマドの跡からイワシの骨とムギ・アワ・マメなどの雑穀を検出
 7号住居跡のカマド 7号竪穴住居跡のカマドからは、ムギ・アワ・キビ・マメなど米を除く雑穀類とともに、マイワシなど海産魚の骨が検出されました。桂川(相模川)の河口から80キロも上流のこの地に、どのようにしてイワシなどの海産魚がもたらされたのかは検討の余地がありますが、奈良・平安時代頃にはこの地域でも広域的な魚の交易が行われていたことが考えられます。一方、遺跡周辺には水田として利用可能な土地がほとんど見られず、水稲耕作を裏付ける遺物も出土していないことから、この集落では雑穀の栽培などの畑作農耕が生業であったと考えられます。 いわゆる「甲斐型(かいがた)」の土師器(はじき)
 6号竪穴住居跡出土の土師器 古墳時代以降、平安時代頃まで日常の容器として用いられた土師器(はじき)や須恵器(すえき)のうち、奈良・平安時代に山梨県(甲斐国)内で盛んに生産された土師器を「甲斐型(かいがた)土師器」と呼んでおり、その分布は関東のほか東海・北陸・近畿地方にまで及びます。 なお、甲斐型土師器は、昨年、平城遷都1,300年祭でにぎわった奈良県の平城京遺跡でも見つかっています。 
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