更新日:2016年4月4日

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甲府城研究室(埋蔵文化財センター)_甲府城の歴史

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甲府城の歴史

甲府城築城

天正10(1582)年に武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となりましたが、本能寺の変後は徳川家康の支配下となり、平岩親吉が城代になりました。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移され、甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が支配することになりました。秀勝の移封後は、加藤光泰が、光泰が文禄の役で没すると浅野長政・幸長の支配となりました。

発掘調査により、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、豊臣家の家紋瓦が出土していることから、築城はこの頃と考えられています。関ヶ原の戦後に、甲斐は再び家康の支配下となり、慶長12(1607)年には幕府の直轄地となりました。城番は武田十二騎がつとめ、支配が代わった後も城番制度が続きましたが、寛文元(1661)年に徳川家光の四男の徳川綱重と、その子綱豊(後の6代将軍家宣)が甲府藩・甲府家をたてました。その頃城の大規模な修復がおこなわれています。

柳沢家の治世と甲府勤番支配

宝永元(1704)年、5代将軍徳川綱吉の側用人である、柳沢吉保とその子柳沢吉里が甲府藩主となりました。柳沢家が大和郡山に転封されるまでの約20年間続いた。柳沢家とともに、家臣団や家族が甲府に移動し、城内・城下ともに武家地を中心に整備されました。

享保9(1724)年、再び幕府の直轄地となり、甲府勤番支配が、山手組・追手組それぞれに1名ずつ就任し、その下に勤番士100人、与力10騎、同心50人が配され、甲府城と周辺の警護をおこないました。

明治維新後

明治維新の廃城以降、甲府城は兵部省(後の陸軍省)の管轄となり、勧業試験場が建てられ、北側部分は中央線の線路となりました。大正6(1917)年に県有財産となり、昭和時代に入り西側部分が市街化されました。昭和43(1968)年、県史跡に指定され、平成2年からは公園整備事業が着手され、発掘調査や整備がおこなわれ、現在の姿になっています。

 

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