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最終更新日:2015年6月3日

ジュエリー産地やまなしヒストリー

水晶の産出と加工のはじまり

主な水晶の産出地

主な水晶の産出地

金峰山系でも、甲府市黒平の向山坑、黒平から山梨市西保までの乙女鉱山や北杜市須玉の押し出し坑から透明で良質な水晶が産出されていた。

水晶の石鏃(せきぞく、やじり)

山梨市牧丘町内や甲州市塩山中萩原重郎原地内から、約5千年から3千年前の縄文式時代の住居跡から水晶のやじりが発見された。県内における水晶加工の始まりとされている。

装身具の玉

県内各地で紀元3世紀頃から8世紀の古墳時代の遺跡から、副葬品としての装身具の玉が発見された。碧玉(ジャスパー)製の腕輪、硬玉(ひすい)、碧玉、水晶、瑪瑙(めのう)の勾玉、管玉、切子玉等。

水晶のご神体

甲州市塩山竹森の玉諸神社の社記によると、「~延長5年(927年)延喜式神名簿に登録され、御神体は水晶の玉石で、高さ7尺余、上6角、大きさ6尺8寸余りあり、~」とあり、ご神体が水晶であることが記載されている。(盗難により現在は存在しないとのこと。)

水晶のご神体水晶のご神体

江戸時代

水晶採掘の規制

江戸時代以前は、領主や幕府の鉱山独占主義により、自由に採掘できず、自然災害等で露出したような場合に限り採掘できたものの、官有物とされた。

火の玉、水の玉

甲府市御岳の金桜神社の社宝である「火の玉」「水の玉」は、京都の玉造り職人が加工したものとされている。(1716~1735年、享保年間)

水晶工芸の始祖「玉屋弥助」

1834年(天保5年)頃、京都の12代玉屋卯兵衛長経の命により、水晶の買い入れのために甲州へ出張し、何度か訪れる度に水晶研磨の技法を伝承したと伝えられる。その後、甲府市御岳には、水晶加工職人が増え、水晶工芸品の生産も増えたことから、甲府市中心部でも御岳の職人を雇用して細工所が開設される。

横浜港の開港

1859年(安政6年)、横浜港が開港し、甲州財閥若尾逸平により、水晶の原石が横浜に運ばれ、外人に注目されたことにより、水晶加工品の注文が増えた。

当時、若尾氏が企業から水晶玉を購入した記録が現存する。

明治時代

始まった鉱山の開発

始まった鉱山の開発

明治政府の殖産興業政策により、一般私人の鉱物採掘が可能となり、既に、水晶研磨が進められていた山梨では、水晶の採掘が盛んとなった。当時の産地は、金峰山系の水晶峠、倉沢山、向山、押出山、竹森山、乙女鉱山、八幡山、川端下、市ノ瀬山、刑部平など。

県令藤村紫朗による水晶工芸施策

1873年(明治6年)、御岳の金桜神社所蔵の水晶玉をオーストリアのウィーン万国博へ出品し、1879年(明治12年)には、明治天皇へ水晶玉を献上した。
1876年(明治9年)甲府城内の勧業試験場に水晶加工場を設置し、水晶加工講習会を実施。この他、技術者の中国への海外派遣も行った。
1877年(明治10年)第1回内国勧業博覧会への甲州特産の生糸、織物など約440点、そのうち、水晶関係は、水晶璞、水晶玉、硯、印材、眼鏡、ボタン、えりかざり、時計くさり、花瓶、各種置物、指輪、根付など約150点が出品された。

水晶加工の動き

1885年(明治18年)御岳で水晶の大収穫があった際に全村焼失する災禍が発生
1887年(明治20年)御岳の水晶研磨工芸が甲府に移転
1889年(明治22年)頃には、水晶の乱掘により生産量が減少、採掘による水害が多発したため、取り締まりが強化された。明治末期には、採掘できなくなった
1890年(明治23年)若狭から瑪瑙細工職人を招いて、原石挽割法、糸取り車を利用した水晶彫刻法(コマ磨法のはじめ)を開発、導入
1896年(明治29年)水晶カットが始まる
1897年(明治30年)水晶業界初の任意団体「甲府水晶組合」を結成1911年(明治44年)新研磨材カーボランダム(酸化鉄)の導入(これまでは金剛砂)
★1894年(明治27年)製造戸数20戸、職工数35人
1902年(明治35年)製造戸数36戸、職工数109人
1912年(明治45年)製造戸数141戸、職工数540人

富士川の舟運による水晶の行商

江戸時代初頭に始まった富士川舟運は、米や塩の流通から、現在の市川三郷町岩間を中心に農業の副業として、足袋の生産、流通へと推移し、1897年(明治30年)頃からは、水晶印をはじめ水晶製品の販路を全国に広げた。

大正時代

業界の動き

1915年(大正4年)ブラジル産水晶原石の輸入が始まる。これにより生産量が増加し、女性の副業として、輸出用のネックレスの玉の穴空けが増加した。
1921年(大正10年)首飾り玉の連結磨りを考案、一度に45個から120個の玉を研磨。
★1916年(大正5年)製造戸数183戸、職工数708人
1925年(大正14年)製造戸数160戸、職工数482人

業界の動き業界の動き

昭和時代

業界の動き(戦前)

1928年(昭和3年)瑪瑙の火入れによる染色法が完成する。
1929年(昭和4年)アメリカから始まった世界大恐慌の影響があり、輸出首飾りの値下がりが進む。打開策を講じるものの約6割が休業となった。
1931年(昭和6年)水晶篆刻の噴砂彫刻法の開発によって量産が可能となり、印章とともに水晶の加工品の行商と通信販売により全国へ普及していった。
1933年(昭和8年)瑪瑙加工の振興への転換。「山梨瑪瑙工業合名会社」設立。

山梨瑪瑙工業合名会社

1940年(昭和15年)「豪奢品等製造販売禁止令」施行。
1941年(昭和16年)太平洋戦争によりブラジル原石の輸入が不可能となる。
★1931年(昭和6年)製造戸数198戸、職工数2,328人
1938年(昭和13年)製造戸数118戸、職工数528人

業界の動き(戦後)

進駐軍のみやげ品として水晶製品の需要。貴金属業者の銀の指輪の販売、国民の間でも安価な指輪、ブローチ、イヤリングが売れた。
1947年(昭和22年)山梨県水晶業組合(組合員238名)、山梨県、山梨大学工学部とが協力して「研磨工業研究所」を設立。
1945年(昭和20年)製造工場数40戸、職工数250人
1948年(昭和23年)製造工場数135戸、職工数750人
1951年(昭和26年)県立研磨工業指導所設立。
1958年(昭和33年)頃から、銀地金が次第に不足し、次第に、金や白金の指輪、イヤリング、ブローチが作られるようになる。
1958年(昭和33年)県内初の業界新聞「山梨研磨宝飾新聞」刊行。

平成時代

Koo-fuプロジェクト

中小企業庁ジャパンブランド育成事業により「Koo-fuプロジェクト」を開始。
プラチナのオリジナル地金を研究開発し、これまでにないデザインの商品づくりが可能となった。
これまでに、2008年、2009年、2010年と新作コレクションを発表し、ジュエリー産地やまなしの認知に寄与している。
また、2009年は、新たにYプロジェクトとして新しい取り組みを開始し、評価を得ている。

webサイトへ http://www.koo-fu.com/
ショップブログへ http://plaza.rakuten.co.jp/koofu/

参考:『水晶宝飾史』甲府商工会議所編
写真:山梨県工業技術センター所蔵

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