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甲州印伝職人・山本裕輔さん写真1

印傳の山本 甲州印伝 伝統工芸士(総合部門)

やまもと ゆうすけ

山本 裕輔

ブルーやオレンジ、黄色にピンク、紫まで、色鮮やかな鹿革とバリエーション豊かな柄の印伝を手に入れることができる「印傳の山本」。オーダー商品や企業とのコラボ商品も順調で、飛ぶ鳥を落とす勢いで突き進み、進化を遂げています。ここまで「印傳の山本」の名を広めたのは、3代目である山本氏の緻密な作業と周りを驚かす新しいアイディア、そして成し遂げる心意気の賜物。新進気鋭の3代目は今を生き、未来に何を思うのでしょうか。その想いを聞いてみます。

先代、先々代の功績で今が在る

 「印傳の山本」は、3代目・山本裕輔さんの祖父・金之助が創業しました。金之助は、増穂村の名主を祖に持ち育ちましたが、自身の代より甲府に移り住み、上原商店(現:印傳屋上原勇七)で働くこととなったそうです。手先の器用さから多くの商品の製作に関わりましたが、第二次世界大戦中の鹿革規制により甲州印伝の製作は次第に減り、さらに金之助も出兵することに。空襲で焦土と化した甲府に戻ってきた金之助は、足に病を抱えながらも、都内の鞄製作企業の下請けとしてランドセルを製作する会社を妻と立ち上げました。それが「印傳の山本」の前身である「山本商店」でした。下請けをしながら金之助は、再び印伝の世界に身を投じます。「甲州印伝にもう一度、光を照らしたい」と。出兵した際、海外の多様な色彩に魅了された金之助の戦略は、従来の印伝にない色で染められた鹿革を使用することでした。やがて豊かな色展開が支持され、山本商店の印伝は徐々に人気を博していきました。金之助の活躍もあり甲府の印伝製作事業者の数は増え、1975年(昭和50年)に甲府印伝商工業協同組合が設立。そして1987年(昭和62年)、遂に甲州印伝が伝統的工芸品になったのでした。この頃には、長男・誠が跡を受け継ぎ、下請けではなく本格的に甲州印伝を専門とする企業として、社名も「有限会社印傳の山本」へ変更。お客様の声をダイレクトに聞けるように製造直売へと形態も変えたことが、商品の開発力向上へと繋がりますます好評を得ていきました。

印伝に捧げた半生

 誠の長男である山本裕輔さん。自宅兼工房だったことから、幼い頃から印伝が生活の中に溶け込んでいました。「幼稚園の頃から印伝の財布や筆箱を使っていましたが、その頃にはまったく興味がなくて。それでも高校時代までずっと使い続けてました」。地元の高校を卒業後、県外の大学に進学して経営学を学んだ山本さんは、大学卒業後「印傳の山本」に入社が約束されていました。実は、中学を卒業した時点で高校には行かず印伝の世界に入ろうと思ったそう。しかし、周囲の説得を受けて進学。「高校生活の中で次第に大学へ行ってもっと印伝の仕事に生かせる勉強をしたいと考えるようになり、大学で商業を学びました」と、大学進学も印伝のためだったと話します。
 2000年(平成12年)、晴れて「有限会社印傳の山本」に入社。18歳のときからアルバイトスタッフとして販売の手伝いをしていたため、印伝を購入する客層や売れる商品は分かっているつもりだった山本さんが託された仕事は、都内等へ出張して百貨店の売り場に1人立ち、お客様と直接話をしながら商品を販売することでした。販売の出張がないときは父親の仕事を手伝いながら、製作に携わりますが「父が祖父から何も教えてもらわなかったように、私も父から教えてもらうことはありませんでした。一通り手伝いをして自分で覚えていく、いわゆる独学でした」。父親と顔を合わせるのは1年のうち僅か1ケ月余り。細かい指導はもちろん、漆の付け方さえ教えてもらう時間はありませんでした。そのため父親と漆の付け方がまったく違うといいます。「力加減も違うし、何ひとつ一緒のものはありません。力がどのように指先に伝わっていくのか、実践を重ねていくしかないんです。父が生きていたときは、私の漆の付け方が気に入らなかったようです」と幾度と記憶のどこかにあった光景をたぐり寄せるように繰り返し、身体に染み込ませて技法の形にしたのです。

過去、現在、そして未来に紡ぐ

 「印傳の山本」では、ひとつの商品を一人が責任を持って最後まで請け負います。「漆付けから縫製まで一人で仕上げるところが他社さんとは違うと思います」。マニュアルもなく、間違ってることを指摘してくれる人も当然いないためプレッシャーが大きいと吐露する山本さん。「答えがわからない中、ひたすら進んでいく不安はありますが、世界中から鹿がいなくなってしまったら、漆の木が全部枯れてしまったらどうしようという不安の方が強いです」。現状、鹿革を中国から輸入できない状況が続いているため、革そのものを他国から確保しなければいけないことも念頭に置きつつ、2014年(平成26年)にスタートしたプロジェクト「URUSHINASHIKA」が稼働することで「潤沢ではありませんが、多少でも材料が確保できれば」と期待を寄せています。「URUSHINASHIKA」とは、害獣として捕獲されたニホンジカを有効活用するため山梨県が立ち上げたプロジェクトから開発された山梨県産鹿革を印伝に活用・製品化する試みです。父・誠も2009年に北杜市の鹿を使ったプロジェクトを立ち上げた経緯がありますが、「材料確保の問題や百貨店との取り扱いに苦労したらしく志半ばになってしまったようです。その後、そのプロジェクトは面白そうだと思っていたところに、同じようなお話をいただきました」と父親が生前成し得なかったことを引き継いでいるような感じがすると話します。
 現在、このプロジェクトのほか、山梨県産の漆を使えるように知人と北杜市に漆の木を植え、漆職人を育成する活動をしています。また、百貨店を主戦場に販売した父親とは違う方法を模索し、まだ普及度が低かった頃からネット通販などweb上での販路を開いたり、各企業とコラボレーションしたりして全国に印伝を広めています。祖父の代から始まった色の展開も拡充しながら継承し、柄との組み合わせを踏まえると何十万通りにも及びます。

新しい価値観の時代に生きる

 いくつもの工程の中で、一番神経を使うところは漆付けだと山本さんは断言。「時間にすると5秒6秒ですが、それですべてが決まってしまうといっても過言ではありません。その数秒に全神経を集中させます」。そして、手作りを言い訳にせず、まるで工業製品のように安定した品質の製品を作ることを心がけていると話します。
 ある企業とのコラボをきっかけに、100社を超える大企業とも連携する「印傳の山本」。印伝製品の魅力を訊ねると、「見た目のキャッチーさに惹かれる人も多いと思いますが、印伝が本領を発揮するのは使った後だと思っています。自分なりの味わいを出していただいて手に馴染む、そこではじめて印伝の魅力が出てくると思っています」。本来は不器用で、物を作ることが苦手だったと話す山本さんですが、「印伝はこういうものと決めつけるのではなく、自由な工芸品であることがやりがい」といいます。「自由だから、昔は羽織があり、鎧のパーツがあったのだと思います。技術はそのままに、時代とともに形を変え生き残ってきた工芸品であり、これから先も形を変えて、時代に寄り添うものだと思っています」。
 これから先の印伝を『突き詰めて努力したら誰でもできる仕事』だとし、作業のマニュアルを電子化して、それを見た誰もが作れる印伝を目指していく、と未来に向けた構想を教えてくれた山本さん。「模様もデータ出力にすれば、漆付けができるようになれば自分だけの印伝をつくることが可能になります。より多くの人が印伝を手にすることができますし、技術を伝えることができます。電子化することで後継者問題もクリアできるようになるはずです」。一人の発想では限界があると感じている山本さんは、多くの人が関わることで無数の創造力が生まれ驚くような製品が誕生するとともに、技術が継承されていくことを願っています。
 かつて甲州印伝 伝統工芸士に認定された父親に憧れて、2018年(平成30年)に認定試験に合格し、総合部門では現在、日本で唯一の甲州印伝 伝統工芸士である裕輔さん。弟である法行さんも総合部門での認定を目指しています。それが叶えば、「兄弟での総合部門認定登録は史上初となります」と微笑みながら、「私はアーティストではない。お客様の欲しいを顕在化する職人です」と未来の職人に向けて生きざまを見せていくのでした。

※山本法行さんは令和4年2月に甲州印伝(総合部門)伝統工芸士に認定されました。おめでとうございます。

作品紹介

企業情報

有限会社 印傳の山本

  • 住所

    山梨県甲府市朝気3-8-4

  • 電話番号

    055-233-1942

  • ファクス番号

    055-228-3922

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