トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > No.540神明遺跡周辺の古い集落の特徴
ページID:112667更新日:2024年2月5日
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令和5年に発掘した笛吹市石和町小石和にある神明遺跡からは、土器の破片や建物跡など、町の一部が発見されました。しかし、令和4年度に発掘したすぐ北側の池田神明遺跡からは、畑の跡がみつかったものの、建物の跡は全くみつかりませんでした。300mしか離れていないのに、池田神明遺跡から町やムラの痕跡がみつからないのには、理由があるのです。
池田神明遺跡と神明遺跡の一帯は、それぞれが明治時代頃も同じような土地利用のされ方だったことが当時の地図からわかります。
池田神明遺跡周辺に住宅が増えたのはここ50年の間のことで、中世以来長い間、この遺跡のまわりは耕作地として利用されてきたようです。また、神明遺跡が発見された小石和の集落や池田神明遺跡をはさんでさらに北側にある唐柏の集落では、家屋が不規則に建っていて、狭い道が入り組んでいます。お寺や神社がこうした集落の中ばかりにあり、古い集落であることがわかります。
これらの集落がある場所を国土地理院の治水地形分類図でみると、畑のみつかった池田神明遺跡周辺は河川の氾濫平野であるのに対し、集落は一段高い微高地上に位置していることがわかります。一般的に微高地は浸水を免れる場合も多く、古くから集落が立地しやすい場所でした。
池田神明・神明両遺跡の北側を流れる今の平等川は、昔は笛吹川の流路であったのですが、氾濫を度々おこし、人々は水害に苦しんできました。古い時代に形成されたと思われる集落は微高地にあり、氾濫による浸水被害を避けやすい場所に出来たと推測できます。そう考えると、池田神明遺跡周辺はまわりより低く、河川が氾濫すると水に浸かってしまう可能性が高いので、家は建てずに農地として利用していたのではないでしょうか。このように、近くにあっても建物跡がみつかる遺跡と、畑のみで建物跡がみつからない遺跡では、周囲よりも一段高い微高地と一段低い氾濫平野上に位置するという地形的な特徴の違いがありました。
「石和町は笛吹川をはじめ平等川、金川など大河川の氾濫とともに発展してきた町といっても過言ではない」と昭和62年に発行された石和町誌の気象災害ページに記載されていることからもわかるように旧石和町は、古くから河川の氾濫の被害に悩まされてきました。そのために、古い集落は、少しでも浸水の被害を防げる微高地に立地したと思われます。この地域の古い集落の共通点として、家が密集していて、道路網が狭く、不規則に家屋が配置している傾向がみられました。また、集落には神社や寺院もみられ、道端には道祖神などの石造物も置かれている場合が多いという特徴がありました。みなさんの町にも、このような特徴がある集落がみられるかもしれません。もし、河川の氾濫によってできた平野にあるとしたら、一段高い微高地に位置している比較的古い集落の可能性が高いのではないでしょうか。
参考文献
石和町誌編さん委員会編 1987年『石和町誌』 第一巻 自然編 歴史編 石和町
石和町誌編さん委員会編 1991年『石和町誌』 第二巻 社会・文化編 現代編 石和町
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