トップ > 組織から探す > 観光文化部 > 山梨県埋蔵文化財センター > No.534甲州道中の難所・赤坂の石造物
更新日:2023年3月16日
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遺跡トピックス |
甲府市内から、甲州道中を西へたどってみましょう。甲府に視点を置くと、甲州道中は江戸との往来で賑わったイメージがありますが、甲斐と信濃(長野県)方面とを結ぶ重要ルートでもありました。甲府から西は信州往還とも呼ばれていて、信濃や現在の北杜市方面から米や酒などの荷物が甲府に運ばれていました。 「赤坂供養塔」について 坂の途中には、「赤坂供養(くよう)塔」といわれている4メートルを 超す高さの石 行き倒れる人馬「赤坂供養塔」の建立前、竜王新町では文化12年(1815)から村の費用で毎年、施餓鬼(せがき)を行っていたといいます。施餓鬼とは災いをなす餓鬼や無縁の霊に飲食を供える行事で、そのための棚(たな)もつくりました。赤坂で行倒れて死亡した者の霊を供養する目的があったようです。のちに名号塔が建ち、元治元年(1864)には念仏堂もできたといいます。阿弥陀仏への信仰から、行き倒れた死者の極楽往生を願う、新町の人々の気持ちがあったのでしょうか。施餓鬼棚から名号塔・念仏堂への流れは、行き倒れ者鎮魂のバージョンアップとも思えます。 それほど赤坂は行き倒れが多い難所だったようです。「赤坂越えればこんな坂なんだ坂」と歌われたといいます。実際の行き倒れの事例をみてみましょう。天保5年(1834)3月10日午後2時頃、60歳ぐらいの婦人が、坂の途中の地蔵院(赤坂諏訪神社辺りにあったといいます)の縁側にうずくまり、苦しんでいるのが発見されました。高熱を出し、脈もとぎれがちで、手足が冷え切っている状態でした。医者にみせて「人参湯(にんじんとう)」などの薬を飲ませたりしましたが、12日正午頃、ついに帰らぬ人となりました。遺品を改めるとお守り袋・めがね・紙包み・針・木綿糸の他、信州善光寺のお札(ふだ)が2枚入っていたといいます。お参りの旅でしょうか。 馬も犠牲になっています。天保14年、大坊(だいぼう)新田(北杜市)から米を甲府方面 明治維新と「赤坂供養塔」明治維新を迎えますと、神道の国教化といった国の宗教政策が、庶民たちがそれまでささやかに信仰してきた祠(ほこら)などを、「いかがわしい」として廃絶に向かわせます。そのような国策と赤坂も無縁ではありませんでした。 明治の初め、赤坂では道幅を広げるなどの改修工事が実施されました。その時、石塔や墓石、石灯籠などは道や橋の石材として使われます。「赤坂供養塔」は竜王川を渡る橋の一部となりました。しかし、人々の供養塔にこめた思いは消え去るものではありません。念仏講の力により、明治19年(1886)に供養塔は、再び赤坂に建てられ、同24年に現在地に移されます。 また赤坂の下にある称念寺(しょうねんじ)でも、復活した石造物を境内にみることが
〔参考文献〕『龍王村史』(龍王村役場、1955)、『龍王町史』(龍王町役場、1976)、『竜王町史』(竜王町、2004)、『竜王町史 文化歴史編』(竜王町、2004)
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