ページID:74976更新日:2017年6月9日

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遺跡トピックスNo.448隼遺跡の大黒窟と大士窟

隼遺跡全景

隼遺跡の大黒窟(左上)と大士窟(右下)

 

隼遺跡の概要

 

隼遺跡(はやぶさいせき)は山梨市牧丘町隼の国道140号(通称、雁坂みち)に隣接した崖にあり、大黒窟(だいこくいわや)と大士窟(だいしいわや)の2つの窟(いわや。1.岩に横穴をあけて作った石室。2.天然にできた岩間の洞穴。広辞苑より)があります。大黒窟と大士窟は窟の形状から山岳信仰などの修行や祭祀を行っていた場所である可能性が高い遺跡です。標高は約470mに位置し、国道140号落石防止・崩落防止対策工事事業に伴い、平成28年の発掘調査により、江戸時代から近現代の遺物が確認され、江戸時代の通貨の「寛永通宝」も出土しました。

 

所在地:山梨市牧丘町隼字坂ノ上地内

時代:中世~近現代

調査機関:山梨県埋蔵文化財センター

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隼遺跡遠景

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大士窟より寛永通宝が出土

大黒窟と大士窟の由来

大黒窟・大士窟の由来は古く、『甲斐國志』という江戸時代の文化11年(1814年)に書かれた地誌の中に記載が見られます。『甲斐國志』巻之二十一の山川部第_山梨郡北山筋の章に「一[隼山]隼村ノ西ノ小山ナリ麓ノ大士窟ハ横七間深拾間、大黒窟ハ方貳間許」と記載されており、現代語に訳すと「隼村の西の小山に、横幅約12.6mで奥行き18mの大士窟と横幅と奥行きが約3.6mの大黒窟があります。」と位置と規模と名称が記録されていました。

隼遺跡の遺跡名は所在地の字名から名付けられましたが、大士窟と大黒窟の名称は発掘調査が始まる時から『甲斐國志』の記載を踏襲していますが、2つの洞窟遺跡がどちらの名称になるかは『甲斐國志』に記載された数値を基に、調査前に計測した数値を比較して名付けました。

 

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奥壁に壇のある大黒窟礎石や奥壁に横穴がある大士窟

 

 

上の写真は発掘調査後の写真です。大黒窟は調査前から奥壁に壇(段差を設けて仏像などの祭祀の対象となるものを置く)が確認でき、山岳信仰の修行の場や祭祀を行う場である可能性が高いと想定されましたが、調査中に遺物は見つかりませんでしたが、発掘調査で床面と奥壁にはほぞ穴が残っていることがわかりました。ほぞ穴に胴木を差し込み、床の土台や崖にまで伸ばして懸崖造りを築いていたのかもしれません。これは鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて造営された横穴式墳窟墓で、鎌倉とその周辺に集中的に分布する「やぐら」と似ており、いわゆる墓としてのやぐらではなく、窟堂として機能していた可能性が有識者から示されています。この大黒窟から中世の一大都市であった鎌倉と地方都市である甲斐国の関連性が出てきます。

大士窟は石造仏2体(うち一体には天明6年の銘)と石造物1基が調査前から確認されましたが、発掘調査で新たに奥壁左の横穴に台座が1基と礎石5基が確認されました。礎石の位置は調査前から確認された壁面に残ったほぞ穴と対応し、扉や門のような建造物があったと思われます。

現在の大黒窟と大士窟は江戸時代の記載と比べると少し小さいですが、これは窟の岩盤が時間の経過とともに崩落して、現在に形になったと推測されます。大黒窟と大士窟も崩落によって礫が天井から落ちて、窟内で埋没していたことが観察できました。特に大黒窟は窟の形を方形のしようという意図が強く、天井や壁に線状のノミ痕が調査前から多数確認されていましたが、そのノミ痕が残るものが崩落した土砂の中からも見つかっており、おそらく天井部分の壁面が崩落したものであることが発掘調査からわかりました。また大黒窟の岩盤はノミなどで加工しやすい軽石凝灰岩であるため、方形など意図した形状に掘りやすく、大士窟の岩盤は礫層と泥流のため、最初は自然の岩間だったものから人為的に拡幅したと思われます。大士窟は何度かの崩落を受けており、大きな礫が天井から窟内の地面に落ちてきています。発掘調査による土層の堆積状況や壁面に残る複数のほぞ穴から、当時の人々は落石によって凸凹になった地面を平らにならして、礎石を再び配置して木柱を立てて扉や門などの建造物を何度も修繕していたことが確認できました。

 

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大黒窟のノミ痕のある崩落した天井の壁面大黒窟(茶色部分が埋没していた)

 

 

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大士窟のトレンチ状況(一部)崩落防止のため、安全設備の下での調査

 

隼遺跡の周辺の石造物

中世では隼遺跡のような窟が鎌倉地域を中心に集中的に作られました。隼遺跡は国道140号(雁坂みち)に隣接しており、この雁坂みちの周辺にも、隼遺跡のように窟に仏像などの信仰の対象を配置している所があります。山梨市の西関東連絡道路万力ランプ近くの霊岩寺には大黒窟によく似た窟の中に石造仏を安置しています。当時の大黒窟もこのような姿であったのでしょうか。規模を比べると霊岩寺の方が大きいので、大黒窟の方が少し古いかもしれません。また雁坂みちを埼玉県へ北上して小鹿野町にある法性寺には、窟の奥にお堂が建てられていますが、その周りには石塔などの石造物が見られます。山梨市の兜山にも座禅修行をしていただろう座禅窟があります。

 

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山梨市霊岩寺

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埼玉県小鹿野町法性寺の奥の院

参考文献・引用文献

牧丘町誌編纂委員会1980『牧丘町誌』

櫛原功一2006「甲斐の窟の諸相-修行窟を中心に-」『山梨県考古学協会誌』第16号

小野正敏他2007『歴史考古学大辞典」

新村出2008『広辞苑』第6版

 

隼遺跡の発掘調査成果は以下の「2016年度上半期遺跡調査発表会」で、2016年10月22日(土曜日)に風土記の丘研修センターにて発表いたしますので、ご興味のある方は是非いらして下さい。

チラシのPDF→コチラをクリック!(PDF:758KB)

 

 

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