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ページID:122956更新日:2025年10月28日
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上窪遺跡では、幾重にも及ぶ洪水等の影響で、複数の遺構面が見つかっています。1面目では10枚の水田跡と、これに伴う平安時代後期~鎌倉時代の土師器が出土しました。2面目では13枚の水田跡と、これに伴う平安時代の土師器が出土し、同遺跡の過去の調査成果と同様の生産域が確認されました。また、調査区東側における2面目水田跡の下層では、過去に中央市域では確認されていない小区画水田と思われる小規模な単位の水田跡が見つかりました。今後自然科学分析等により年代を推定していきますが、律令期以前の可能性があるものとして、大変興味深いものです。
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| 1面目 平安~鎌倉時代の水田 | 3面目 小区画水田 | 
調査では、青柳河岸跡に向かう御蔵道跡、水路跡、石橋が見つかりました。御蔵道は幅3m程度でかまぼこ状の断面となっています。道路の上は固くしまっており、数度にわたって石を入れ、造り直していることが分かりました。水路跡は、土留のための木杭が等間隔に打たれている様子も確認できました。これら遺構が造られた時期は、石橋の積み方の特徴や、御蔵道の直上の地層から近世以降の遺物が出土していることから、近世~近代と考えられます。明治時代の地籍図と照らし合わせた結果、見つかった遺構と地図表記が一致しており、近代初頭の周辺景観を考察する際の貴重な成果となりました。
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| 御蔵道跡 | 
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1面目では、12世紀の遺物を伴う溝2条、竪穴土坑2基が見つかりました。2面目では墳丘が残っており、既に存在が知られている先屋敷古墳の南側が調査対象となりました。先屋敷古墳の南側からは、横穴式石室の前庭部とみられる遺構が見つかり、長頸壺やはそうなどの須恵器も出土したことから、7世紀前半頃の横穴式石室を持つ古墳であることが分かりました。また、先屋敷古墳の南西側では、削平され埋没していた無袖の横穴式石室が新たに見つかり、先屋敷2号墳と名付けました。前庭部からは1号墳と同時代の須恵器長頸壺や土師器坏などの遺物が出土しました。また、石室内からは鉄刀や墨書された甲斐型土器などが出土しており、石室を再利用された際に納められたものと考えられます。
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| 先屋敷2号墳(画像右が北) | 1号墳前庭部 長頸壺出土状況(約1,300年前) | 
2次調査区は、令和5年度の調査区から中央道を挟んで北側にあたります。現地表から30cm程度で中世の遺物包含層となり、狭小の面積ながら、300点近くの遺物位置を記録しました。浅く狭い溝状遺構が10条見つかっており、畑などの土地利用が考えられます。
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| 出土した土器と古銭 | 
3次調査区は、令和5年度の調査区の西側にあたります。現地表から70cm程度で中世の遺物包含層となり、3,000点以上の遺物位置を記録しました。出土遺物の年代は13世紀~16世紀頃まで幅があります。調査区の大半は畦畔を伴う水田跡ですが、北東側ではピットや土坑、小屋状の掘立柱建物跡もみつかりました。これらの遺構と水田跡の境目に、用水路状の遺構は見つからなかったため、湿田による耕作を行っていた可能性も考えられます。
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| 上空から見た約500年前の水田の区画 | 出土した土器(かわらけ) | 
調査では中世~近世の水田跡が見つかりました。中世の水田跡は北東に位置する大津横田遺跡と同時期のものと思われます。遺物は300点以上の出土位置を記録していますが、その中でも渡来銭が比較的多く、30点以上出土しました。中世の畦畔と、近世の畦畔はほぼ同じ位置で見つかっています。畦畔と同位置に現代の区画も一部確認することができることから、昔の区画が現在まで踏襲されている部分があると考えられます。
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| 近世の水田跡 | 出土した皇宋通寶 | 
1面目では近世以降の畑跡と天地返しの跡が見つかりました。天地返しは畑跡を掘り込んで行われています。また、検出した畑跡の内、1つは長さ約2m程度の畝のまとまりが認められました。同様の事例は、甲府市池田の東河原遺跡で見つかっており、綿花の畑の可能性が指摘されています。2面目の調査では、中世以降のこぶし大の礫を骨材にした水田畦畔が2条見つかりました。水田面は東高西低であることから、往時の微地形を把握することが出来ます。
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| 発見された畑畝と天地返しの跡 | 
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1面目では、南調査区において近世以降の水田畦畔1条が見つかり、近世の水田としての土地利用が明らかとなりました。2面目では、地表下約3.6m地点において中世後半の溝1条及び石組み井戸1基、人骨を伴う土壙墓1基が見つかりました。2面目の調査成果から、周辺には中世後半期の村落が存在していると想定できます。
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| 人骨が出土した土壙墓 | 石組みの井戸 | 
1面目では、これまでの調査で平安時代後期~鎌倉時代とされる水田面が4面見つかりました。調査区南側の畦畔は2度の旧河道により壊されてしまっています。2面目は畑跡で、畑の畝間を14条検出しました。これまでの調査では、同じ土層中において10世紀頃の集落跡が見つかっていました。3面目では杭列が、見つかりました。柵の構造材と思われる自然木の集積を検出しており、杭列とともに護岸施設が設置されていたと思われます。4面目からは畑跡が見つかっています。
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| 水田の跡 | 
奈良時代~平安時代の石組カマド付竪穴建物跡9軒が見つかりました。うち4軒については、床面付近から大量の焼土・炭化物が出土し、焼失したものとみられます。遺跡は山間部の段丘上に位置しており、調査によって造成以前の傾斜地に集落が形成していることが明らかとなりました。検出したカマドはいずれも川原石をしっかり組んでつくられたものであり、火山灰質の軟弱地盤に対応してつくられたものと思われます。
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| 平安時代の焼失竪穴建物 | 竪穴建物のカマド | 
甲府市上曽根町の独立丘陵に造られた城跡で、城跡北端とその裾部で調査をしました。北端では造築時に盛った可能性のある盛土が検出され、竪堀跡と思われる落ち込みも見つかったことから、引き続きの調査が期待されます。裾部では、溝状遺構や古墳時代の土器片が多数出土し、さらに下層では弥生時代後半の土器片も出土したことで、当時はこの地で人々の往来があった可能性が考えられます。
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| 勝山城跡時代の可能性がある盛り土 | 溝状遺構から出土した土器 |