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ページID:122943更新日:2025年10月28日
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令和5年度の調査では、今から約500年~600年前のピット782基、土坑234基、溝22条、石組み井戸2基、集石遺構9基、土壙墓19基、不明遺構45基が見つかりました。石列や溝で区画された空間は、これまでの調査で見つかったものを含めて、10区画以上見つかっており、多くの人々が集住した住宅街であったことが明らかになってきました。また、道路状遺構を軸とした境界線は、現在の地境と一致しているものがあり、現在まで継承されています。
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| 溝に区画された掘立柱建物跡 | 土壙墓 | 
大津天神堂遺跡からは、大きく2時期の遺跡が見つかっています。1面目は16世紀後半と考えられる田畠跡で、水田跡や島畠状の遺構が見つかりました。島畠は、山梨県内の発掘調査において確認された事例として、初めてのものとなります。2面目は15世紀後半の集落跡で、区画用あるいは排水用の溝状遺構や、最大4間×6間の掘立柱建物跡を含む建物跡群、素掘りの井戸跡などが見つかりました。低湿地における調査で、木製品も数多く出土しています。溝状遺構からは横槌や漆椀などが出土し、掘立柱建物跡には柱根が残っていました。
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| 溝に区画された屋敷地 | 出土した漆埦 | 
毘沙門遺跡は、甲府盆地南部の境川扇状地上に立地する遺跡です。令和3年度に隣接地で発掘調査を実施し、古墳時代後期から平安時代の竪穴建物跡が多数発見されていましたが、今回の調査区では古墳時代の遺構は検出されず、平安時代(11世紀代)を中心とする竪穴建物跡を7軒発見しました。このうちの1軒からは炭化した木材が多数発見されており、火災にあったものと思われます。
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| 燃えた木材が見つかった竪穴建物跡。火事で焼けてしまったか。 | 竪穴建物跡でみつかった碗 | 
戸川堤防遺跡は、富士川町最勝寺地区を流れる戸川左岸にある堤防遺跡です。地中からは、2箇所の石積みと畑跡が発見されました。石積が造られた時期は落とし積みの技法が使われていること、堤防の内部出見つかった遺物が近代以降の陶磁器であることから、明治時代以降と考えられます。また、石材は地元戸川の石材を使用したことがわかります。戸川堤防遺跡は、増穂地域においての水害史を考慮する上で先に調査された旧利根川堤防遺跡とともに貴重な遺跡であると考えられます。
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| 左から1号石積、畑跡、2号石積 | 1号石積 断面 | 
調査では中世の水田跡が見つかり、調査区を東西南北に走る畦畔を8条確認しました。この水田を覆う後世の洪水層の中から、中世の素焼きの土師器皿、内耳鍋、おろし皿の破片や、近世の陶磁器、渡来銭などが出土しました。さらに調査区の北側では地震による地割れの跡も確認されました。見つかった畦畔の一部については、現代の畦畔と軸が一致しており、600年間にわたり、幾度の洪水や災害にあってもなお、土地利用や土地の地割りが変化することなく使用され続けたことを物語っています。
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| B区 畦畔の様子 | C区 地割れ跡 | 
本遺跡は、甲府盆地内の氾濫平野に立地する遺跡で、周囲には県内の一大河川である笛吹川や、かつての笛吹川流路である平等川が流れています。今回の調査対象地は、旧微高地から湿地のような低地にあたる場所となります。遺跡は微高地上を中心に分布し、平安時代後期から中世にかけての遺跡が立地することが分かりました。特に中世の面からは、掘立柱建物跡や、列状の集石によって土地を区画したとみられる遺構が見つかりました。
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| 15世紀ごろの大溝 | 平安時代の終わりから鎌倉時代の土器 |