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ページID:70488更新日:2016年1月19日

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SC0026

県指定 史跡

徳川家康側室養珠院墓所

  • 徳川家康側室養珠院墓所(とくがわいえやすそくしつようじゅいんぼしょ)

平成20年5月8日指定

所在地 身延町大野839

所有者又は管理者 本遠寺

 

身延町の本遠寺(ほんのんじ)には、徳川家康側室養珠院の墓所がある。養珠院は、お万の方と呼ばれ、徳川御三家のうち、紀伊家の藩祖頼宣、水戸家の藩祖頼房の生母であり、水戸黄門こと徳川光圀の祖母にあたる。お万の方は、熱心な日蓮宗の信者として知られ、本遠寺を創建した心性院日遠上人(にちおんしょうにん、身延山久遠寺二十二世)に帰依し、同宗の隆盛に寄与した。そのため、寛永17年(1640)にはそれまで女人禁制であった身延の七面山に初めて参詣を果たし、女性の登山を解禁させるきっかけを作った。

本遠寺は日蓮宗由緒寺院(本山)の一つで、日遠上人が、慶長法難による刑を免れたのち、慶長14年(1609)に退隠して大野の地に草庵を結んだことに始まる。正保3年(1646)には江戸幕府第3代将軍徳川家光から260石余の寺領を与えられ、慶安3年(1650)からは紀州藩主徳川頼宣によって堂宇の造営、改修が行われ、承応4年(1655)には落成をみた。

お万の方は、徳川家康の死後、落髪して養珠院と称し、久遠寺(身延町)や池上本門寺(東京都)の保護に尽くしたが、承応2年(1653)8月21日に、江戸の紀州藩邸で死去した。紀州藩主頼宣は、養珠院の遺言により、本遠寺に壮麗で雄大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建立し、菩提を弔った。

宝篋印塔は関西形式で、正面の石門と周囲の玉垣の細工は県内では類例がなく、紀州藩が派遣した石工の手によるものと推定されている。材料の御影石は、欠損部位もなく、近世初期の大名墓と墓制を知る上で貴重な資料といえる。また、当時、最上級の技術や部材により造りだされたもので、徳川家の盛時を偲ばせる。

墓所には宝篋印塔(花崗岩・高さ4.55m)、玉垣(花崗岩)、石門(平唐門・花崗岩)、石燈籠(いしどうろう)、手水盥(ちょうずたらい)、墓所周辺に紀州徳川家供養塔3基、石燈籠16基、石段、石垣がある。

 

徳川家康側室養珠院墓所の位置図←こちらをクリックで地図がご覧いただけます。 

 

 

 

 

 

 

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