ページID:89045更新日:2019年3月25日

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RC0016

県指定 有形文化財(歴史資料)

郷民擁護碑及び丸山之碑1

郷民擁護碑

郷民擁護碑及び丸山之碑2

丸山之碑

  • 郷民擁護碑及び丸山之碑(ごうみんようごのひおよびまるやまのひ)

平成31年2月25日指定

所在地  甲府市下曽根町字山本(甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園内)

所有者又は管理者 山梨県

 

郷民擁護碑・丸山之碑は、甲斐風土記の丘公園内の丸山塚古墳の周溝の東側に所在する。甲府盆地南東部に位置するこの一帯には、弥生時代後期から古墳時代に至る時期の墳墓が集中的に分布している。両碑建立の契機となった丸山塚古墳は、その出土品等から古墳時代中期の築造と考えられており、昭和5年に甲斐銚子塚古墳が国史跡に指定された折に、その附指定となっている。

郷民擁護碑は、江戸時代後期に当時の市川代官であった小林藤之助らによって建立されたものである。碑には「ここは神霊が鎮座する場所である。大切にすれば福がもたらされるし、冒涜すれば祟られる。」という内容が記されている。小林藤之助は、この古墳が尋常な場所でないと感じ、当時の土地所有者であった地元の浄照寺の住職である雲里に相談した。雲里は当時「甲斐の雲里」と呼ばれる俳人でもあったが、代官の思いに賛同し、この地を村有地にした上で村をあげて皆で大切にした方がよいと進言し、本碑が建立された。

丸山之碑は、明治時代に地主の松野伝四郎によって建立された。東京帝國大學教授の坪井正五郎草稿による碑文によれば、松野伝四郎は開墾の折に深さ1尺5寸の所で石室を発見し、内部から青銅鏡と刀剣数点を見つけたとされる。「郷民擁護碑」の碑文により、祟りを恐れた松野は、これら出土品の評価を学術的権威に求め、東京帝國大學へ迅速に連絡をした結果、出土品の散逸を防ぐことにつながった。

以上のように、江戸時代における郷民擁護碑の建立、明治時代の丸山塚古墳の副葬品の出土から、一帯の「甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園」の整備、史跡甲斐銚子塚古墳附丸山塚古墳の保存整備事業までの流れを辿ると、両碑の存在により古墳とその出土品が守られ、周辺一帯の史跡公園としての整備とその活用につながってきたことが理解できる。さらに郷民擁護碑に記された「祟り」という言葉の根底には、文化財保護の精神が宿っていたことがうかがえる。このような、遺跡における「祟り」に関する資料はすでに江戸時代に多く見られ各地の地誌などで報告されており、遺跡に対する一種の畏れは、語り伝えられ、人々の心の中にあり続けた。これは当時、各地で共有された遺跡に対する観念でもあったと考えられる。このように日本社会において息づいていた神霊に対する伝統的観念が、無用な発掘を阻止してきたことを考え合わせると、それはある意味で法律よりも効果的であったとも言える。

「郷民擁護碑」は、それ自体が文化財保護の精神を伝える資料として、県内唯一の資料であり、「この場所を大切にしないと祟りがある」と遺跡に対する畏れを明確に示した碑としては、全国的にも稀有な事例である。その後建立された「丸山之碑」と共にこれら二碑は、江戸時代末の先駆的文化財保護の精神が、明治時代に至るも脈々と地域に伝えられた経緯を語る存在であり、今日この一帯が、史跡公園として整備され、古の歴史を伝える場として活用されていることにもつながっている。以上により、この二碑は山梨県指定文化財として相当の価値をもつものと評価できる。

〈みどころ〉

「たたり」って信じますか?

江戸時代末にたてられた郷民擁護碑には、「ここには神様がいるので、大切にすればいい事があるし、大切にしなければたたりがある」という内容が記されています。

「ここ」とは、甲斐風土記の丘公園内の丸山塚古墳のことです。

「この古墳を大事にしなければ、たたりがある」との文化財保護のメッセージは、現代にも伝えられ、一帯の古墳は保存され公園となり、歴史を知る場として親しまれています。

 

 

 

 

 

 

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