明治に入り、甲斐絹は質・量ともに最盛期を迎えることとなりました。 絵甲斐絹が織られ出したのは19世紀初頭であろうと言われていますが、織機上のたて糸に型紙をあてて絵具刷毛で絵をすりこむ独特の技法が生まれたのは明治10年頃のことでした。明治時代には絵甲斐絹以外にも、甲斐絹のさまざまなバリエーションが誕生しました。 明治以降に織られた甲斐絹の主なものは無地甲斐絹、絵甲斐絹、縞甲斐絹の3つでしたが、明治の前半は無地甲斐絹、後半は絵甲斐絹、そして大正以降は縞甲斐絹へと、その中心は移り変わっていったといわれています。 また明治27年(1894)には、県の支援によって郡内はじめての組織団体、甲斐絹改良組合が南都留郡西桂村の小沼に設立されました。また、明治38年(1905)には甲斐絹その他の織物技術の向上を図るため、現在の山梨県富士工業技術センターの前身である『山梨県工業試験場』が谷村町(現在の都留市)に設置されました。 甲斐絹で培われた技術を生かして洋傘地、裏地など、現在でも多く織られている織物が製造されるようになったのも明治時代のことでした。 明治12年(1879)の『山梨県勧業年報』によると、甲斐絹が61%、洋傘地が26%を占めていた、とあります。 下のグラフは郡内織物産地の生産量の推移を示したものです。明治、大正時代は甲斐絹がほとんどでしたが、昭和に入るとそれ以外の品目が急激に増加し、甲斐絹以外のものが多数を占めるようになりました。そして太平洋戦争勃発とともに生産量は激減し、甲斐絹の歴史もここで幕を閉じることになります。
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