郡内織物産地のルーツは、およそ千年前の文献に見ることができますが、甲斐絹そのものの起源は、約四百年前にさかのぼります。
甲斐絹は、いわゆる南蛮貿易によって海外からもたらされた生地をもとにして作られたものだ、といわれています。
南蛮貿易は、室町時代の末期、天文12年(1543)にポルトガル船が種子島に漂着したのをきっかけに始まりました。そして戦国時代の後期から江戸時代の初期にかけて、西欧より近東印度の文物や、南清の織物など海外の染織物が国内に盛んに渡来し始めました。
このころ輸入された織物・糸類には
金襴、緞子、紗綾、縮緬、綸子、海気、朱子、羅紗、呉呂服綸、絹呉呂、間道(縞物)木綿、天絨、繻珍、毛、白糸(生糸)
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などがあり、この中の海気と呼ばれているものが甲斐絹のルーツといわれ、元亀(1570-1573)、天正(1573-1592)の頃から慶長(1596-1615)末年までの間に我が国にもたらされたといわれています。
そして、渡来した海気をもとにして、やがて郡内でも同様の生地が織られ、それらが郡内海気という言葉で呼ばれるようになったのは、そのおよそ百年ののち、江戸中期のころだったようです。
これについては享保17年(1732)に三宅也来が著した「万金産業袋(ばんきんすぎはひぶくろ)」に記述されています。
それによると、郡内で当時織られていた絹織物は
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●白郡内(しろぐんない) |
●郡内太織(ぐんないふとおり) |
●織色郡内(おりいろぐんない) |
●郡内平(ぐんないひら) |
などがあり、このうち4番目の「織色郡内」を、「郡内海気」と称するとしています。
郡内海気は薄手の織物で、緯糸を藍色に染め、経糸には白糸を使って織った霜降りの織物であったといわれています。
さて、「かいき」を漢字表記するには、「海気」「海機」「改機」「加伊岐」などの様々な当て字が用いられるほか、片仮名で「カイキ」とされることもありましたが、そのうち最も多く使用されたのは「海気」でした。明治30年頃までは地元でもこれを使い、また県文書統計も明治40年まで「海気」を使用していました。
「甲斐絹」という字を使うようになったのは、一般に明治に入ってからと言われています。一説によれば、山梨県令から初代知事となって県下の産業開発に貢献した藤村紫郎氏が、「海気」の生産が殆ど甲斐で行われ、いわゆる特産品であったことから、うまく「甲斐絹」の文字を付けた、と言われています。しかし一方、そうではなくて既に当時一般民間から使いだした、という説もあるようです。
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