□6 文学にみる甲斐絹
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 いまからおよそ300年前の江戸時代中期は、いわゆる元禄風の奢侈な文化が上方から江戸に流れ、それにつれて郡内の絹織物の需要も増え、郡内織物産地が全国に名を知られるようになってきた時代です。

 郡内で織られた生地は、上等の絹織物としてもてはやされ、幾つかの文学作品にも登場しています。

 甲斐絹のルーツのひとつである郡内縞は、浮世草子の創始者で知られる井原西鶴
(1642-1693)「好色一代男」(1682)に登場し、また「好色五人女」(1686)では主人公のひとり「八百屋お七」が処刑の日に着ていたとされるなど、当時の風俗のなかに郡内の織物が浸透している様子が伺えます。

井原西鶴 『好色一代男』 天和2年(1682)
口添えて酒軽籠 より
…湯殿にかけこみ、こころのせくままにちよと物して出る所を、よしに見付けられて、悲しや様々口がため、郡内縞のおもてを約束するこそきのどくなれ
[内容] 目当ての女性に会いに忍んでいった主人公の世之介が、逢引のあと湯殿を出るところを「よし」に見つかり、口止め料として郡内縞の表着を約束させられてしまう、というシーン。


井原西鶴 『好色五人女』 貞享3年(1686)
巻四 恋草からげし八百屋物語 より
…今朝見れば、塵も灰もなくて、鈴の森松風ばかり残りて、旅人も聞伝へてただは通らず、回向してその後を弔ひける。さればその日の小袖、郡内縞のきれぎれまでも世の人拾ひ求めて、末々の物語の種とぞ思ひける
[内容] 恋人吉三郎に会いたいが為に火付けの罪を犯したお七が、鈴の森で火刑に処されてしまった後の情景。うわさを聞いた旅人もお七を弔い、また処刑の日にお七が着ていた小袖の郡内縞の切れ端までも人々は拾い求め、後々までの語り草にした、というエピソード。


 また井原西鶴の好色ものからおよそ40年後、近代浄瑠璃の大家である近松門左衛門(1653-1724)の作品、「心中天の網島」(1720)「心中宵庚申」(1722)にも、郡内縞が登場しています。

近松門左衛門 『心中天の網島』 享保5年(1720)
中之卷 より
…けふちりめんの明日はない夫の命白茶裏。娘のお末が兩面の紅絹の小袖に身を焦がす。これを曲げては勘太郎が手も綿もない袖無しの。羽織もまぜて郡内のしまつして着ぬ浅黄裏。黒羽二重の一張羅定紋丸に蔦の葉の。のきも退かれもせぬ中は内裸でも外錦。男飾りの小袖までさらへて物數十五色。内ばに取つて新銀三百五十匁。
 

近松門左衛門 『心中宵庚申』 享保7年(1722)
下之卷 より
…別れはしばしの此世の名殘。十念迫つて一念の聲もろ共にぐつと刺す。喉の呼吸も亂るる刃。思ひ切ても四苦八苦手足をあがき身をもがき。
卯月六日の朝露の草には置かで毛氈の。上になき名をとどめたり。
歳は三九の郡内島血潮に染みて紅の。衣服に姿かい繕い妻の抱へをニつに押切。諸肌脱いで我と我鳩尾と臍のニ所。うんと締めては引くくり引くくり。
郡内…原文ママ


 さらにその90年後、「東海道膝栗毛」で有名な十辺舎一九が文化10年(1813)に著した『諸国道中金の草鞋(12巻編)』の中には、四谷、新宿から身延に回る途中、郡内を詠んだといわれるつぎのような狂歌があります。

   いつとても
      かわらぬ 宿のはんじょうは
         今をさかりの 春の花崎

 江戸時代の中頃には、こんな里唄が唄われました。


 と、郡内の地域毎の織物の特徴が描かれています。



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