ここでは、甲斐絹のふるさとである郡内織物産地の歴史をご紹介します。
郡内織物産地が文書に残された記録としては、およそ1000年前、平安時代の中頃の康保4年(967)に施行された法令集、「延喜式(えんぎしき)」によるものが最も古いと考えられています。
その一文に、
遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽、越後、佐渡、播磨、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隈、薩摩の以上28ヶ国其の製するところの布を以って調庸となす
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とあり、甲斐の国が織物産地のひとつに数えられていることが記されています。 なお、ここに書かれた「布」というのは、麻の繊維を織った麻布のことであったようです。
その後、郡内が納税のためでなく商品として織物を製造する産地となったのは、さらに500年余り後、郡内にほど近い江戸が、一大消費都市として発達してきた戦国時代末期のころだったようです。
こうして芽生えた郡内機業を成長させ、全国に名の知られた絹織物産地へと押し上げたのは、江戸時代初期の領主、秋元家三代の力であったといわれています。
郡内領主秋元家三代(1633〜1704)
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寛永10年(1633)
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初代秋元泰朝(やすとも)、上州(群馬県)より郡内領に封ぜられる。 |
寛永19年(1642) |
初代泰朝没(63歳)、二代富朝襲封。 |
明歴3年(1657) |
二代富朝没(48歳)、三代喬知(たかとも)襲封。 |
宝永元年(1704) |
三代目秋元喬知は武州(埼玉)へ国替。このあと郡内は直轄領(天領)となり代官が治めた。 |
平地の少ない郡内では米が多くとれないため、初代秋元泰朝は絹織物を売って得た金銭を年貢として納めさせることに施策の重点を置きました。
これまで野蚕糸を使っていた農民に桑を植えて家で蚕を飼わせることで上質な原糸を作らせ、また上州から新式の織機をとりよせて貸しつけるなどの働きかけを行い、同時に重い税金を課しました。この結果、品質と技術が向上し、次第に郡内織物産地は一層発展していったといわれています。
上方で商業文化が花開いた元禄(1688-1704)の頃になると、絹織物の需要はさらに増大し、郡内の絹織物は井原西鶴(1642-1693)の浮世草子にも名前が出るほどになりました。また京都では『にせ郡内』と呼ばれる模造品まで出現するほどだったといわれています。
また、郡内絹の生産量が増えるのにともなって、織物の種類も増えて行きました。享保(1716-1736)のころの資料には、
白絹の上等は真木・花咲、
黄絹は小形山、
縞の類は上下谷村、
海気は田野倉、
八反掛は暮地・小沼から上物を産する
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とあります。
しかし、郡内産地の名が全国に知られるようになったとはいえ、江戸時代の郡内の織物は、あくまで農業の副業として営まれた小規模なものでした。その担い手はもっぱら農家の女性たちであり、家事や農業の合間に行・、ものでした。
賃機(ちんばた)や工場制手工業といった近代的な生産形態が導入されたのは、明治に入ってからのことでした。
そして明治時代に入り、産地の発展とともに甲斐絹も最盛期を迎えることとなります。
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