ふれあい特集号vol.39(デジタルブック版)
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09〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦 石橋湛山は、1884(明治17)年、父・杉田湛誓と母・きんの長男・省三として生まれた。 1885(明治18)年、父が故郷南巨摩郡増穂村(現・富士川町)に寿命山昌福寺の住職として赴くに当たり、母と西山梨郡稲門村(現・甲府市伊勢2丁目)に移住。湛誓は、寺院での厳格なしつけを湛山にも施すとともに、小学生だった湛山に漢文を学ばせるなど高度な教育を行った。 1894(明治27)年、静岡市の青龍山本覚寺に栄転する父の考えにより10歳の湛山は中巨摩郡鏡中条村(現・南アルプス市)にある恵光山長遠寺の住職 望月日謙(後の身延山久遠寺第83世法主)に預けられることに。これは孟子の「古者子を易えて、之れを教ゆ」(昔の賢者は、お互いの子どもを交換して教えた)との言葉に従ってのことで、中学を卒業するまでの8年間、父母との交流はほぼ絶たれることになるが、湛山は望月師の元で父から受けた日蓮宗の教えをさらに深めていった。 優秀な生徒だった湛山は、1895(明治28)年4月、山梨県尋常中学校(現・甲府一高)に皆よりも2年早い11歳で入学した。ところが、まだ体力的に幼い湛山は、2回留年。結局、通常5年で卒業のところ、7年間通うことになったのだが、そのおかげで、一生を支配するほどの多大なる影響を受けた大島正健校長と出会うことになる。大島は、ウイリアム・スミス・クラーク博士から直接教えを受けた札幌農学校(現・北海道大学)の一期生でクリスチャンでもあり、自ら修身の授業を担当し、BeGentleman(紳士たるもの規則に縛られるのではなく、自己の良心に従って行動すべきである)と教え、クラーク精神を説いた。湛山は幼少時代から親しんだ「実践・行動」を重んじる日蓮宗の教えだけにこだわることなく、その基礎の上に合理的な判断や自由主義、民主主義という新たな土台を築いていったのである。それこそが今日「湛山思想」と呼ばれる彼の哲学の根幹を成すものであった。 中学卒業後、早稲田大学の哲学科を首席で卒業した湛山は、後に東洋経済新報社へ入社。大正から昭和にかけてオピニオンリーダーとして民主主義を提唱し、強い信念を持つ論壇の雄として大いにペンを振るった。しかし、太平洋戦争を回避できなかったことから言論活動に限界を感じ、戦後は政界に進出。第一次吉田内閣で大蔵大臣を務め、戦後経済の再建を推進。1956(昭和31)年には第55代内閣総理大臣に就任した。 就任直後、病に倒れわずか63日で辞任するも、その後政界復帰を果たし中国との国交回復などに尽力した。日中国交正常化から1年後の1973(昭和48)年、88歳で生涯を閉じた湛山。その枕もとには、手放すことのなかった「日蓮遺文集」と「聖書」が置かれていた。硬骨の基礎が培われた少年時代生涯の師との出会い論壇の雄として活躍後、政界へじょうおん じたん せいせい ぞう笛吹市御坂町成田1501-1 TEL 055-261-2631県立博物館山梨の偉人コーナー(常設展内)石橋湛山が揮毫し、甲府一高に寄贈された「Be Gentleman」の書にっ けんいにしえはか石橋湛山記念財団から甲府一高に寄贈された胸像 〈藪内佐斗司 作〉

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