vol.23(平成22年1月1日発行)
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 大洪水に見舞われた約100年前の山梨県下は、悲惨なものであった。幾度かの災害を経験した人々も、この時ほど苦境に立たされたことはなかった。明治40年(1907)、8月22日から24日にかけて台風による豪雨が降り続き、郡内の大月付近では700ミリを超え、国中の笛吹筋でも500ミリ近い雨量になった。被害は県下全般に及んだが、とりわけ被害が大きかったのは、日川・重川・金川・旧鵜飼川などが笛吹川に合流する石和町(現笛吹市)。そこは、またたく間に一面の海となった。全県で死者233人、破壊・流出家屋11、943戸、埋没・流出した田畑、宅地約650haに及び、被害総額は1000万円以上と見込まれた。当時の県予算の10倍を大きく超える額であった。  百年に一度あるかないかの自然災害であったことは間違いないが、桑園拡大による里山の開墾や生産・生活様式の変化がもたらした山林濫伐も原因のひとつ。また山林地の多くが皇室御料林に編入され、従来の入会慣行が制限され、無秩序な伐採や盗伐まで横行し、森林が荒廃していたことも大きな背景になっていた。さらに、この傷跡が癒えない明治43年(1910)8月に再び大水害に襲われ、県民生活は、大変困窮することとなった。新天地を求めて、被災した県民がまとまって北海道へ集団移住したのは、後にも先にもこの時だけであった。 明治末、県下を襲った 未曾有の大水害 県民の暮らしの 基盤となった「恩賜林」  御料地の払い下げは、すでに県議会でも度々取り上げられ国への請願も続けられてきたが、交渉は難航。日露戦争や一府九県連合共進会開催など内外の諸問題に紛れ、解決を見ないまま大水害に見舞われてしまった。明治43年の県民大会では、根本的な復旧と御料地の無償還付の声が強く上がり、同12月、県民大会の決議を受け県議会は、入会御料地を無償で下付を願う旨の意見書を内務省に提出した。そして、ついに明治44年(1911)3月11日、大水害で疲弊した県土復興のために、明治天皇から県下の御料地約16万4千haが下賜された。これが、現在の山梨県県有林の大部分を占める恩賜県有財産で、「恩賜林」と呼ばれている。  「恩賜林」は県下28市町村のうち23の市町村に及んでいる。現在まで、恩賜県有財産管理条例により、各地の保護組合、市町村、財産区によって保護されている。明治の大水害直後の復興だけでなく、維持管理されてきた森林は戦後の経済復興期の基盤のひとつにもなった。主要水源地とも重なり、それぞれの地域の治山、治水上大きな役割を果たしてきたばかりか、県土の保全や地球温暖化の抑制にも一役かってきた。ツガ、モミ、シラベなどの針葉樹、ナラ、クリ、ブナ、カエデなどの広葉樹。豊かな緑は、自然保護活動の拠点として、都会と山村が交流する新たなレクリエーションの場として活用されている。 明治40年の大水害に見舞われた甲運村(甲府市)の惨状。洪水で家屋が流された。耕地も道路も濁流に押し流されてしまった。謝恩碑の石材はコロを使って運んだ。左側の三角の石材は碑の先端部分である。昭和25年 甲府城跡の謝恩碑の台に登られ、戦後の甲府市の復興ぶりをご視察、市民の歓迎におこたえになる昭和天皇と皇太后さま。昭和39年春。謝恩碑の下でフォークダンスを楽しむ若者たち。  甲府城跡として整備が進む舞鶴城公園に、そびえ立つ「謝恩碑」。明治末の大洪水の記憶がまだ遠からぬ大正9年(1920)に、御料地の御下賜への感謝を込めて、最も衆目を引き、遠く恩賜林を見渡せるこの位置に建てられた記念碑である。碑身の高さは、約30メートル、碑材には、東山梨郡神金村(現甲州市)の恩賜林内から切り出された白い花崗岩が使われている。  かつては「謝恩碑」だけがぽつんと見えたものだが、今は公園を取り囲む甲府駅周辺には、高層ビルやマンションが建て込んできた。だが、県民にとって、この「謝恩碑」ほど日常風景に溶け込んでいるシンボルは他にない。  戦前、県下の小・中学校では、3月11日は大洪水の記憶と下賜された森林への感謝を思い起こす「恩賜林記念日」として祝われ、「恩賜林記念日の歌」が歌われていた。  平成23年3月には、「恩賜林御下賜百周年」を迎える。恩賜林を守り育ててきた先人に感謝するとともに、これからも、県民一人ひとりが森林の大切さや県有林の役割について考え、県民共有の貴重な財産として守り育てていかなければならない。 舞鶴城公園に、 白くそびえる「謝恩碑」 記事監修:山梨大学教育人間科学部 教授 齋藤 康彦 23ふれあい

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