ここから本文です。

更新日:2013年10月2日

山梨ジュエリー産業史

1. ジュエリー産業のはじまり

山梨のジュエリー産業は、金峰山(奥秩父の主脈に属する山の一つで秩父多摩甲斐国立公園に属する。標高2,599m)一帯を中心とする地域から産出する水晶をきっかけに誕生し、発展を遂げてきました。山梨で「ジュエリー産業」というと「研磨宝飾産業」のことを意味します。それは「水晶工芸=水晶研磨」と「貴金属工芸(宝飾=錺り)」の2つの流れから発展してきた歴史があるためです。その歴史はともに江戸時代末期に遡ることができます。当時はそれぞれが別々の仕事として行われていましたが、明治中期の装身具生産の過程において、2つの産業が結びついたことにより、市場性の高い完全な製品づくりができるようになりました。

2. ジュエリーの一大生産地へ

大正初期には、甲府の錺りは貴金属を材料とした高級装身具づくりのいわゆる貴金属工芸へと移り始め、設備を機械化して量産する業者も現れました。また、明治末期から枯渇していた山梨産水晶に代わって、ブラジル産水晶が大量に輸入されるようになります。そして水晶に錺りを施す水晶錺りでも規格品が量産化されるようになり、全国販売が始まりました。中国大陸への出張販売や、日本国内の富裕階層への「通信販売」、また、水晶細工やネックレスのアメリカへの輸出といった新販路も開拓し、研磨宝飾品の産地としての基盤が形成され、「水晶の山梨」として全国に知られるようになりました。

3. 戦争による衰退、進駐軍土産品ブームによる復興

昭和に入り、戦争がはじまると、研磨宝飾業者は水晶発振子、レンズ、絶縁体等の軍需研磨品の生産体制へと組み込まれていきました。こうした中、昭和15年の「奢侈品等製造禁止令」が産業に大きな打撃を与えます。戦争が続く中、研磨宝飾業者の転廃業など業界の再編成が進み、昭和20年、甲府市は全市の80%が焦土と化すほどの空襲を受け、伝統を誇ってきた研磨宝飾産業は衰退していきました。
戦争が終わると、研磨宝飾産業は驚異的な復活を遂げますが、それは主に進駐軍の兵士たちのお土産としての首飾り、イヤリング、ペンダント、水晶細工などの量産によるものでした。

4. 高度成長期とジュエリー

戦時中の装飾への抑圧への反動もあり、戦後の研磨宝飾品の需要は増大し、進駐軍ブームが去った後、国内向けの本格的な生産が始まりました。昭和30年代には、真鍮、ラインゴールド、銀などの素材に、半貴石、合成宝石、ガラス飾石をあしらった身辺装飾品を中心に、室内装飾品、また工業用品など多様な品種が量産されるようになりました。高度経済成長期を迎え、国民の生活が安定し、消費に目が向くようになると、国民の装身具に対する嗜好は次第に高級品へと移行し、ダイヤモンドをはじめとする、各種色石類に金、ホワイトゴールド、プラチナなどの素材を使用した中級、高級製品の加工に取り組むようになり、宝飾品の高級化、多様化を求める市場の需要に対応していきます。

5. 県立の専門学校開校、バブル期へ

昭和48年のオイル・ショックでは、この業界も相当な被害を受けましたが、この年、金地金、金製品の輸入が自由化されることで、宝飾産業は新たな時代を迎えます。山梨がジュエリーの産地として、広く認識されていく中で、研磨宝飾産業のさらなる発展と人材育成を目的に、昭和56年に「山梨県立宝石美術専門学校」が開校し、産業を支える新しい世代が育成され、多くの卒業生が県内外の宝飾業界で活躍するようになります。昭和61年頃からバブル経済期を迎えると、ジュエリーは花形商品となり、山梨の研磨宝飾産業も拡大、発展しました。しかし、バブル崩壊後は、一転してジュエリー市場は縮小、低迷期を迎えます。

6. バブル崩壊、ジュエリーの新たな提案

現在、ジュエリーのマーケット規模はバブル期の1/2になっており、それに伴い山梨産ジュエリーの生産高も減少しています。国内に流通するジュエリーのおよそ1/3は今でも山梨で生み出されていますが、海外ブランドの輸入、アジアの近隣諸国の台頭、既存の販売ルートの衰退などの課題を抱え、国際競争力を持つ産業構造への転換を余儀なくされています。その打開策として、山梨ジュエリーのブランド化に取り組むなど、グローバル市場に対応した生産地としての新たな試みを始めています。

ページの先頭へ戻る