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更新日:2016年5月17日

山梨の機械電子産業のあゆみ

江戸・明治期

  • 古来甲州は、わが国第一の水晶の産地であり、原石の発見も遠く縄文時代であったといわれているが、縄文時代の人々によって作られた狩猟用石鏃は別として、県内でいわゆる水晶工芸が行われるようになったのは、江戸末期であった。
  • 明治維新にあたり新政府は、我が国の近代化を進める方策として積極的に殖産興業に力を入れ、まず第一に地下資源の開発を促進することとなった。明治2年2月、民間に鉱山開発を許可して全国の各種鉱産物の試掘と売買を奨励した。
  • 水晶採掘の自由化によって原石が増産されるようになるとともに、産地御岳での水晶工芸は全盛期に入り、加工道具類も次第に発達した。
  • 明治の初期には甲府の町に多くの優れた技術者が現れ、それぞれ細工所を設けて加工にも手を染めるようになり、甲府における水晶工芸は急速に発展していった。加工法は明治後期になると次第に機械化され、研磨も手磨りから円盤磨り時代へと飛躍的な発展を遂げた。

昭和初期から終戦まで

  • 昭和14年ごろから発振子、光学レンズなどの軍需が急激に伸び、原石の需要は一段と盛んになった。その後、戦局の拡大により、水晶並びに貴金属製品などは全面的に製造禁止となり、一部の業者はいち早く企業合同して軍需産業方面に転換し、水晶発振子、ST板、光学レンズ、プリズム、絶縁体、航空機部品などの生産に従事した。
  • 太平洋戦争期に入って、本県内への疎開工場の建設が増加した。昭和17年には東京芝浦電気が甲府市に、18年初頭には立川飛行機が現中央市(旧田富町)に疎開工場の建設を開始し、そのほかにも京浜地区の工場の県内への疎開が増加した。昭和18年、明電舎の疎開工場として甲府工場が発足した。しかし、東京芝浦電気などの甲府市近郊の疎開工場は、実際には工場として本格的に整備されることなく敗戦を迎えた。
  • 隣県の長野県においても、太平洋戦争期において、工場疎開によって航空機工業を中心とする軍需産業が急増した。諏訪地方を中心とした精密機械工業や、富士通信機須坂工場・富士電機松本工場などに代表される電子工業のように、戦後の長野県における代表的工業部門に成長するケースも存在したが、本県の場合、その疎開工場は大半が引き上げ、大規模な軍需工場が戦後そのまま県内に定着し、代表的工業に成長することはなかった。戦後に、工場疎開によって土地を半ば強制的に買収された農民の不満が噴出したためである。

戦後・復興期

  • 昭和20年の秋から21年にかけて、工場生産は再開されはじめるが、太平洋戦争の敗戦により山梨の産業は壊滅的な状況で、電力・燃料・資材不足や雇用者の確保などの問題に直面した。この時期の工業の中心は、繊維工業であり、それに食品工業、製材及び木製品工業が続いた。これらは、家族を主体にした伝統的な家内工業が中心で、問屋の指示を受けて製造をする、いわゆる下請け生産であった。繊維工業以外で注目されるのは、水晶加工業である。戦時中、研磨技術により軍需品の研磨工業に8割が転換したが、戦後再び、装飾品・装身具などの製造に復帰した。進駐したアメリカ兵が水晶加工品を土産品として買いあさり、全国から引き合いが殺到し、宝飾工業としての発展の手がかりとなった。他方で、疎開工場をもとにした機械金属工業は、精密機械工業として定着した長野県諏訪地方のように積極的な役割を果たすことはなかった。
  • 昭和24年明電舎は閉鎖となり、退職となった従業員主体で甲府明電舎が昭和25年に設立された。

高度成長期

  • 昭和30年代に入り、日本は高度経済成長期を迎えるが、本県はその動きから取り残され、昭和36年の「産業振興基本計画」で、「低所得県ないし後進県」と表現される状態であった。昭和33年の新笹子トンネル開通や交通機関整備の展望が開けるなかで、昭和35年にかけて15工場の誘致が実現した。主な企業としては、エム・エス・バルブ製作所(宮入バルブ製作所)、シチズンの全額出資の部品工場である河口湖精密、日本ダイアモンド工業、日本精密工業(現在のニスカ)、長岡精機宝石工業大月工場、太平電子甲府工場、長谷川電機製作所、鳥居電機上野原工場などである。 
  • 昭和39年の東京オリンピックが終わって産業界が活発になった。東海道新幹線、東名・名神高速道路など、交通インフラの整備によるものであった。
  • 昭和40年前後に、山梨でも日立製作所・日本電気の工場が山梨に進出し、半導体ダイオードや電話の交換機等の生産が始まった。これが山梨で機械電子機器の生産が活発になるきっかけとなった。その後多くの企業の工場が進出し、山梨県内の中小企業も仕事量が増加した。すでにあった企業も拡大し、また新しく中小企業が多く起業した。
  • その後の交通基盤の整備や工業団地の造成、農村地域「一村一工場」対策の実施などにより、誘致企業は増大した。昭和47年までの企業誘致数は144である。このうち昭和40年までが57で、そのなかには、東京電気化学工業甲府工場(現在のTDK)、日立製作所甲府工場(現在のルネサス エレクトロニクス株式会社)やトキコ(現在の日立オートモティブシステム)が含まれる。県内の立地条件から内陸型の業種が主体であった。電子部品・高付加価値製品(産業用装置)の工場が立地した。
  • その後の時期は、高度経済成長後半のいざなぎ景気に当たるが、山梨コニカ、甲府三協、カシオ計算機甲府工場、サントリー白州ディステラリー、日電山梨などが立地した。
  • 昭和49年から50年にわたって石油価格が高騰し、世界中が省エネルギーの方向になり、軽薄短小の時代に突入した。これにより産業構造の変化が起こった。沿岸部での鉄鋼、造船、石油コンビナートなどの重厚長大産業から内陸部における電子・精密機器など軽薄短小産業への転換である。この頃から山梨の産業立地時代が来たといえる。

新笹子トンネル開通

中央道全線開通と企業立地の増大

  • 昭和50年代から県内各地に工業団地が造成され、昭和53年には国母工業団地、55年には甲西工業団地、56年には釜無工業団地が造成され、57年、中央自動車道全線開通により、工業団地への立地、県内各地への企業立地が盛んになった。
  • 自動車、家庭電化製品など耐久消費財を中心にした日本の高度成長は、ニクソンショックと2度にわたるオイルショックで終焉したが、その後の日本経済は、産業用機械や半導体、液晶などの電子デバイス、合成樹脂や合成繊維などの化学製品(原材料)によって支えられることになる。生産の中心が、最終消費財から資本財・生産財に変わった。資本財・生産財の特徴は、①設備投資の動きに左右される。②技術革新のテンポが早い。③輸出依存度が高いことである。山梨県の基幹工業団地などに立地したのは、我が国の産業を代表し、モノづくりを先導する最先端の技術を持つ企業だった。
  • その後、身延・東部・境川・双葉・白根・櫛形・上野原・三珠等、平成10年までに約30工業団地が開発され分譲された。

中央自動車道 双葉IC上空

工業製品出荷額の伸び率日本一に

  • 昭和62年から平成2年まで、4年連続で生産高の伸び率が、対前年比20%を超え、工業製品出荷額の伸び率で日本一の成長となった。4年間で2倍以上の生産高となり、県民に豊かさと活力を与えた。
  • 昭和45年に長坂(現在の北杜市)の地で起業したテルメックは、59年に東京エレクトロンと合併し、山梨から全国、世界へと製品を製造、出荷する体制が整い、その後、東京エレクトロンは半導体製造装置の研究開発と製造の拠点を韮崎市に整備し、県内中小企業への部品発注、装置ユニットの発注が増加したことにより、県内中小企業の加工技術の著しい向上をもたらした。
  • 県内の工業団地に立地した企業・工場も、自社の工場の増強と同時に県内中小企業への発注を増加させ、昭和62年から平成2年にかけての年率20%アップの生産額の増加に貢献した。
  • 県内東部地域でも、昭和50年代後半に南都留郡忍野村・山中湖村に立地したファナックは、高成長・高収益企業として有名で、県と地元市町村に多額の税収をもたらした。この地域は東京に近いということで、シチズン関連の企業、日本電気関連の企業、沖電機関連の企業等の進出が多く、また、平成に入って上野原工業団地の開発もあって、製造品出荷額が増加し、雇用も増加した。
  • 昭和50年代以降の山梨県内産業の特徴としては、産業用製造装置と電子関連部品の製造企業が立地し、飛躍的に拡大したことである。産業用ロボット・装置制御機器・半導体製造装置・液晶板製造装置・産業用計測機器・スーパーコンピュータシステム等の生産額は、山梨県製造品出荷額の20%以上になっていた。

上野原工業団地

影の時代

  • 昭和30年代に激化した日米繊維摩擦を皮切りに、鉄鋼、自動車・家電、半導体など、たびたび生じた日米貿易摩擦は、そのたびに我が国のものづくりに大きな影響を及ぼし、本県産業もその例外ではなかった。
  • また、円高不況、バブル崩壊による平成不況、アジア通貨危機、リーマンショックなどの景気の後退局面では、県内においても生産や投資の縮小、雇用調整、製造拠点の海外移転など様々な対応がなされ、やがて生産は回復・拡大局面を迎える循環が繰り返されてきた。

現在

  • 平成19年6月、圏央道八王子以北の開通により、北関東を結ぶインフラが整備され、県東部を中心に本県経済圏域が北関東へ進展することが期待された。こうしたインフラ環境の整備を背景に上野原工業団地への入居が進展し、県東部の企業活動も活発化している。
  • 本県には東京エレクトロン(株)、パナソニックファクトリーソリューションズ(株)、シチズン電子(株)、HOYA(株)、ルネサスエレクトロニクス(株)など半導体製造・液晶製造関連企業が集積し、実装、アセンブリ等に高度の技術力を有する中小企業も多い。また、ファナック株式会社や(株)牧野フライス製作所、THK(株)、(株)キトーなどに代表される工作機械、産業用ロボット関連企業も集積し、県内製品出荷額等の内、機械・電子関連産業が70%程度を占めている。

電子関連産業

未来へ向かって

  • 東京都と大阪市をリニアモーターカーで1時間で結ぶ中央新幹線が現実のものとなりつつある。2014年~2015年に着工し、2027年にリニア方式で東京都 - 名古屋市の間で先行して営業運転を開始する構想がJR東海から発表されている。このリニア中央新幹線構想が実現すれば、山梨は首都圏、中京圏及び関西圏と短時間で結ばれ、人やモノの流れも大きく変わり、県内産業に大きなインパクトを与えることが期待される。
  • 東京のみならず、名古屋、大阪といった関西経済圏との連携強化が図られ、関西国際空港や名古屋空港といった西の国際玄関にもアクセスが容易になることが想定される。
  • また、静岡県静岡市を起点とし、終点を長野県佐久市とする総延長 約136kmの国土開発幹線自動車道である中部横断自動車道は、既に、増穂IC-双葉JCT間が開通している。未開通の区間の内、富沢IC-六郷IC間、八千穂IC-佐久小諸JCT間についても、早期開通に向けた取り組みがなされている。中部横断自動車道の開通により、富士山静岡空港や清水港、新潟港との近接性が増し、東西、南北の交通の要所として、富士山に代表される豊かな自然環境に恵まれた本県は最先端のものづくり拠点として、その魅力は増すことが期待される。
  • さらに、わが国におけるエネルギー供給の安定化・効率化、地球温暖化問題の解決等の観点から、実用化が期待を集める燃料電池の本格的普及のため、山梨大学燃料電池ナノ材料研究センターが設立され、高性能、高信頼性、低コストを同時に実現可能な燃料電池の基礎的技術を確立するべく、ナノテクノロジーを駆使した研究が行われている。豊かな自然環境の下、新たな最先端テクノロジーが萌芽するエリアとしての本県のものづくりのあゆみは続いていく。
  • その一方で、円高に対応し価格競争力を維持するために海外に生産拠点を移す従来からの動きに加え、かつて世界経済の中心であった米国に匹敵する巨大なマーケットの隣国・中国の出現は今、日本のものづくりの有り様を大きく変えようとしており、山梨のものづくりもまた、この大きな変革の波の中で、未来に向けた対応を迫られている。

リニアモーターカー 新型

山梨大学燃料電池ナノ材料研究センター

参考文献

  •  風間 善樹 「山梨県現代産業について」 ~山梨県史のしおり~ 2006年
  • 坂本 宏「行政からみた戦後工業のあゆみ」 ~山梨県史のしおり~ 2003年
  • 山梨県「山梨県史 通史編6 近現代2」 2006年 
  • 山梨県「山梨県史 資料編18 近現代5」 2003年
  • 甲府商工会議所「水晶宝飾史」 1968年
  • 「山梨大学燃料電池ナノ材料研究センター」HP
  • 「Wikipedia」

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