トップ > 県政情報・統計 > 広報 > 山梨県の広報番組(テレビ・ラジオ) > 山梨県広報番組「YBSやまなしINDEX」番組リスト > やまなしINDEX「甲府藩」平成23年10月7日(金曜日)午前7時15分?7時20分(YBS)

更新日:2011年10月1日

ここから本文です。

やまなしINDEX「甲府藩」平成23年10月7日(金曜日)午前7時15分~7時20分(YBS)

番組概要

この番組では、「インデックス」=「見出し」をキーワードに、山梨の話題を紐解いていきます。

放送は、毎週金曜日午前7時15分からと、土曜日午前8時20分からの2回です。

 

今週のINDEXは、「甲府藩」

 

10月8日(土曜日)~11月28日(月曜日)まで開催の県立博物館企画展「柳沢吉保と甲府城開催にあわせ、今回番組では、甲府藩15万石の藩主であった柳沢吉保と甲府城についてのウンチクを紹介します。

 

企画展「柳沢吉保と甲府城」展は10月8日から11月28日までです

 

武田氏支配後から甲府藩成立まで

 

「甲府藩」は、「谷村藩」などと並ぶ、甲斐国にあった藩の一つ。

「藩」は、江戸時代には公的な制度名ではなく、儒学者が用いた呼称でした。江戸幕府では当時、大名領を「領分」と呼び、1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を表しました。

 

今回番組では、便宜的に、1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構に対し、用語として定着している「藩」という呼び名を使うこととします。

 

 

さて、甲斐国は、戦国時代に守護・武田氏により統一、武田信虎から信玄の時代にかけて甲府に府中が移され、躑躅ヶ崎館を中心とする城下町を形成。

武田氏滅亡後、織田信長は、家臣(河尻秀隆)に甲斐一国を与えますが、同年6月、本能寺の変で信長が亡くなると、甲斐では武田遺臣による一揆が起こります。これによって領主・秀隆は殺害され、甲斐国は無主状態に陥ります。

 

その後、甲斐国をめぐり徳川家康と北条氏政が争った結果、甲斐は徳川氏の支配となりました(天正壬午の乱)。

家康は、家臣(平岩親吉)に、新たに甲府・愛宕山の麓、一条小山に甲府城を普請させ、甲斐の守備を任せます。その後、豊臣秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長父子など、豊臣系の大名が甲斐国を支配しました。

 

甲府城跡出土金箔鯱瓦(桃山時代)

甲府城跡出土金箔鯱瓦(桃山時代、山梨県立考古博物館蔵、山梨県指定文化財)

 

 

関ヶ原の戦い後、甲斐は、駿河国と併せて徳川家直系による支配を受けます。しかし、1632年、領主(徳川忠長)改易により、甲斐国は幕府直轄領(城番制)となりました。

しかし、約20年を経て1651年(慶安4年)、3代将軍・徳川家光の三男である徳川綱重が甲斐を拝領、親藩大名が統治する甲府藩が成立します。

 

甲府徳川家による統治は、これから10年にわたり、幕府代官を召し抱える支配委託を行っていたものの、1661年(寛文元年)、家臣団・代官などの機構整備や、甲斐国内の旗本領の整理などを行うことで、藩政支配が始まることとなります。

 

柳沢家の支配と終焉

 

さて3代将軍・徳川家光の三男、徳川綱重により成立した甲府藩ですが、その後、綱重の息子、綱豊に継がれます。

その綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、家宣(のち6代将軍)と改名。これにより、1704年(宝永元年)、5代将軍・綱吉の側用人、柳沢吉保が甲府城主となり、初めて親藩以外の領地となります。

 

さて、柳沢家は、平安・鎌倉時代以来の名門、甲斐源氏の一族、一条家の末裔にあたり、武川周辺に土着した「武川衆」の一員。戦国時代、吉保の祖父・信俊は、武田家に仕えたが、武田勝頼の滅亡後は徳川家康に出仕し、父・安忠は、群馬県・館林藩主であった徳川綱吉に仕えました。

 

吉保は、18歳の時に知行530石を与えられて綱吉の小姓となり、やがて、学問に熱心であった綱吉の弟子として寵愛されました。1860年(延宝8年)4代将軍・家綱が亡くなり、弟の綱吉が将軍となると、吉保の人生にも転機が訪れます。すなわち、幕府の旗本となった吉保は、小納戸役として将軍の身の回りを整える役で頭角を現し、1688年(元禄元年)には将軍と、老中・若年寄ら諸大名とを取り次ぐ側用人に就任、1万石の領地を与えられる大名となったのです。

 

1704年(宝永元年)吉保は、先祖の出身地である甲斐国三郡(山梨・八代・巨摩)15万1千石を拝領し、甲府城を与えられ、これまた幕府直轄領であった郡内領をも預けられることとなります。これにより、柳沢家は事実上、甲斐一国を支配することとなりました。

 

甲斐国領知朱印状(江戸時代)

甲斐国領知朱印状(江戸時代、奈良県財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会蔵)

 

 

吉保自身は、幕府の大老格で要職の地位にあったため、江戸を離れることを許されず、生前に一度も甲斐国を訪れることはありませんでしたが、先祖の地、甲斐への思い入れは強く、甲府に配置した留守居役の家臣に対して、直筆による細かい指示を与えています。

特に吉保が意を注いだのは、甲府城と城下町の整備でした。

 

吉保の異例の出世ぶりは、しばしばテレビドラマなので陰謀をめぐらす策略家として演出されましたが、吉保が諸大名と交わした書簡を見ると、幕府の行事や、将軍の意向を気にかける大名らに、吉保は懇切丁寧にアドバイスしており、彼の律義で誠実な仕事ぶりが窺われます。

 

1709年(宝永6年)綱吉が死去して第6代将軍に徳川家宣が就任すると、吉保も併せて隠居したため、吉保の息子・吉里が家督を継ぎ、甲府藩の2代藩主となります。父の吉保は、幕府要職にあり、終生、甲斐国へ入って直接藩政に携わることはありませんでしたが、1710年(宝永7年)吉里は、甲府城へ入城、甲府藩は初めて藩主を迎えることとなります。吉里は父同様、甲府城下の整備に取り組んでおり、戦国時代の慶長期以来、検地が行われなかったことで幕府領と旗本領が入り組んでいた笛吹川以東の村々に対し、吉里は検地を実施したり、用水を整備したりするなど勧農政策も行いました。

 

その後、将軍・吉宗時代の享保9年(1724年)に、享保の改革における幕府直轄領の拡大政策による甲斐の直轄領化に伴って、吉里は大和国郡山藩主として移されます。

 

以後、甲府藩は、甲府城に詰める甲府勤番の支配となり、再び天領となったのです。

 

山梨県立博物館・秋季企画展「柳沢吉保と甲府城」の紹介

 

10月8日(土曜日)~11月28日(月曜日)の間、開催します。

 

県内外に伝わる吉保の肖像画や彫像が初めて一堂に会するとともに、吉保の書簡や甲府城跡から出土した当時の遺物、また、恵林寺に伝わる吉保・定子夫妻愛用の調度品など、これまでほとんど公開されたことのない、柳沢家ゆかりの貴重な文化財が数多く展示されます。

 

  • 開催時間午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)

 

  • 休館日毎週火曜日

 

「柳沢吉保と甲府城」展では、悪いイメージが付きがちな吉保の律義で誠実な仕事ぶりや、妻・定子へ向けた和歌、息子への教訓集など、家族への愛情あふれる資料が多数披露されるとのこと。

今回もラジオをお聴きの上、是非、みなさんの目で確かめてみてください。

 

 

YBSラジオ「やまなしINDEXブログも是非ご覧ください!

 

このページに関するお問い合わせ先

山梨県知事政策局広聴広報グループ 担当:電波広報担当
住所:〒400-8501 甲府市丸の内1-6-1
電話番号:055(223)1338   ファクス番号:055(223)1525

山梨県観光文化部考古博物館 
住所:〒400-1508 甲府市下曽根町923
電話番号:055(261)2631   ファクス番号:055(261)2632

広告スペース

広告掲載について