てくてくvol.17
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 実は昇仙峡という名称は、いつ、誰が、どのようにして名付けたのか分かっていません。地質・植物の調査研究や景勝地開発で功績を残した石原初太郎は、昭和5(1930)年に刊行した著書「御嶽昇仙峡と其奥」の中で、江戸時代の終わりごろには、単に御岳新道と呼ばれていたのを明治20(1887)年に漢学者の三島毅らが巨摩渓と名付けたと紹介しています。御岳昇仙峡の名称が初めて見られるのは、明治27(1894)年に出版された、地理学者である志賀重昂の「日本風景論」です。そして大正元(1912)年に発行された、作家である松崎天民の「甲州見聞記」には「俗に御嶽新道といい、また、金渓とも昇仙峡ともいう」と書かれています。このように当時はまだ名称が定着していませんでした。 大正11(1922)年9月に「御岳に行啓を仰ぐべし 当局者に勧む」と題された社説が地元の新聞の一面に掲載されました。それは大正天皇の摂政を務めていた皇太子(後の昭和天皇)の行啓日程に昇仙峡が含まれていなかったため、行啓を懇願してほしいといった内容のものでした。そこには皇太子の観光探勝によって、FEATURE昇仙峡、その名の由来は謎に満ちている皇太子の行啓により御岳昇仙峡の名は定着し全国に広まった石原初太郎「御嶽昇仙峡と其奥」(山梨県立博物館蔵)昭和初期の「御嶽昇仙峡絵葉書」(山梨県立博物館蔵)「甲府市を中心とする甲斐大観」(山梨県立博物館蔵) 甲府盆地を中心とした観光名所案内。右下に昇仙峡が描かれているけいそのおくしげたかこ ま06

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