てくてくvol.17
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 円右衛門が暮らしていた猪狩村など、昇仙峡の上流に位置する村では製炭が主な産業でした。当時、村人たちが炭やまきを甲府城下へ売りに行き、日用品などの買い物を済ませて村に戻るためには、未整備の山道を通らなければならず新しい道の開削が待ち望まれていました。そこで円右衛門が中心となり、天保5(1834)年に渓流沿いの新道開削に着手しました。しかし大きな岩盤などに阻まれる難工事となり、また途中、大飢饉に見舞われて中断を余儀なくされるなど、新道の開削は苦難の道のりでした。そして天保14(1843)年にようやく「御岳新道」は開通したのです。 山梨を代表する地場産業の一つに宝飾産業があります。甲府市を中心に宝飾産業が発展したのは、昇仙峡を含む甲府盆地の北側の山々から水晶が大量に産出したことに起因します。水晶は特に金峰山周辺に多くあり、昇仙峡の上流に位置する黒平村では盛んに採掘されていました。こうした産物の流通にも新道の恩恵はあったと考えられます。そして何といっても観光への影響は大きく、円右衛門と交遊のあった文人らが景勝地を描き、詩文を添えた「仙嶽闢路図」が安政元(1854)年に発行されるなど、昇仙峡は観光地として広く知られるようになりました。三枝雲岱「御嶽昇仙峡絵巻」(山梨県立博物館蔵) 金櫻神社と昇仙峡が描かれている水晶の採掘の様子を復元した模型(左)と黒平で産出した水晶(右)(帝京大学やまなし伝統工芸館)くろべらせんがくへき ろ ず苦難の末に、開削された新道は産業と観光の可能性も切り開いたき きん05

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