山梨てくてくvol.13
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1841-421845バルビゾンへ、そして農民を描く。ミレーもこのコンクールに挑みますが落選。しかし1840年に、官展であるパリのサロンで肖像画が初入選を果たします。 サロンで入選という成功を手にしたミレーはシェルブールに戻り、依頼を受けて肖像画を制作したり、親しみやすい風俗画などを描いたりして生計を立てるようになります。1841年、ポーリーヌと結婚し、妻ポーリーヌを親密な視点で捉えた、魅力的な肖像画《ポーリーヌ・V・オノの肖像》を描き上げました。ポーリーヌと二人でパリに戻ったミレーの生活は、収入が少なく苦しかったのですが、過去の巨匠の作品を見てまわり、学ぶことができました。そのような暮らしの中、体が弱かったポーリーヌが1844年に亡くなり、ミレーは再びシェルブールに戻ったのです。 ポーリーヌを亡くしたミレーは生涯の伴侶となるカトリーヌ・ルメールと出会い、1845年にパリに戻ります。以降、神話画や宗教画をサロンに出品し入選を果たします。しかしながら、批評家たちの注目を大きく集めるには至りませんでした。 1848年、フランスは3度目の大きな革命期を迎えます。世情と文化が複雑に絡み合っているフランスでは、美術の世界も変わり、作品も一般大衆や農民を描いたものが目立ってきました。そしてミレー自身も自分が親しんできた文化圏の農民の生活や労働をレパートリーとして表現するBarbizonバルビゾンノルマンディー地方CherbourgシェルブールGruchyグリュシーParisパリFranceフランス「ダフニスとクロエ」 油彩・麻布/82・5×65・0㎝ミレーが物語を主題にして制作した作品。古代ギリシャの詩人ロンゴスの牧歌的な恋愛小説『ダフニスとクロエ』の一場面が描かれている。バルビゾン村で制作していた代表的な画家たちを「バルビゾン派」と呼んでいた。彼らはフォンテーヌブローの森を愛し、森の豊かな自然を画題としていた。「ポーリーヌ・V・オノの肖像」 油彩・麻布/73・0×63・0㎝ミレー初期の肖像画。描かれているのはシェルブールの仕立屋の娘、ポーリーヌ・ヴィルジニ・オノ。ミレーの最初の妻となった女性だが結婚3年後に他界。ディアズの家バリーの家ジャックの家ドービニーの家ミレーの家ルソーの家ガンヌの宿屋Nシャルル・ジャック通りテオドール・ルソー通りミレーとルソーの記念碑フォンテーヌブローの森役場ジャン=フランソワ・ミレー通りアントワーヌ=ルイ・バリー通りバルビゾン村アンジェルス広場ディアズ通り05

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