山梨てくてくvol.12
6/20

 そして時は流れ、ビールは新時代を迎えました。クラフトビール時代の到来です。平成6年に酒税法が改正され、ビールの最低製造量が年間2000㌔㍑から60㌔㍑に引き下げられたことで、全国各地に小規模醸造所が登場したのです。一時的に巻き起こったクラフトビールのブームは去ったものの、感性と熱意のあるビール醸造技術者たちは、本物のおいしさを追求し続け、独創的な味わいを確立していったのです。山梨のクラフトビールは、東日本における日本人による国産ビール発祥の地という歴史の上に、確固たる存在感を放つビールとして多くのクラフトビールファンに愛されています。 正章のビールは品質が優れており、1875(明治8)年の京都府博覧会では銅メダルを獲得するほど世間に認められるものでした。当時の山梨は内陸部の重要な商圏であり、非常に大きな市場もあって商業も発展していたので、正章が山梨でビール事業を立ち上げたことにもうなずけます。しかし当時、まだビールは日本人になじみが薄く、ビール特有の苦味もあまり好まれるものではありませんでした。繁栄していた甲府といえども、今の金額に換算すると一本2000円近くしたため、思うように売れず、東京や横浜に販路を求めたものの事業は失敗に終わったのです。1882(明治15)年、正章はビール事業から撤退しました。先見の明はあったが、始めるのが早すぎたが故の失敗でした。しかしながら、正章の挑戦が日本のビール産業の一里塚となったことは紛れもない事実といえるでしょう。さらに先駆者としての正章の取り組みの中で育った醸造技術を持つ職人たちは、山梨から離れた後も全国各地で活躍し、正章が築いた日本のビール産業の礎を受け継いでいったのです。現在の日本のビール産業への布石。その先見の明が今に生かされている。京都府博覧会での受賞メダル(個人蔵)ローマ字表記を添えた野口正章の名刺(個人蔵)明治45年の甲府柳町の風景。この一角に「十一屋」がある(山梨県立博物館蔵)06

元のページ  ../index.html#6

このブックを見る