山梨てくてくvol.12
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うな中、国産ビール醸造の将来性をいち早く察知し、事業を始めた日本人が現れました。 「日本ビール産業の祖」と呼ばれるアメリカ人のウィリアム・コープランドが横浜で1870(明治3)年に「スプリングバレー・ブルワリー」を開設しました。その2年後に大阪で渋谷庄三郎が日本人として初めての「渋谷ビール」を、そして、1874(明治7)年に甲府で野口正章が「三ツ鱗ビール」の販売を開始しました。つまり山梨は、全国で2番目、東日本では最初に日本人がビール醸造を始めた地なのです。 正章は1849(嘉永2)年、現在の滋賀県東近江市に生まれました。野口家は全国に11の支店を有し、「十一屋」を屋号とする近江商人で、正章は甲府に店舗を構え酒造業を営んでいました。家の人からも「西洋狂い」と呼ばれるほど西洋文化に精通し、目の付けどころが一歩も二歩も先を行くような豊かな感性を持つ人でしたから、日本でも庶民がビールを飲むようになると見越し、国産化をすべきだと考えたのです。その後、山梨県内の殖産興業と西洋化を進めた県令・藤村紫朗の後押しもあり、本格的にビール醸造に着手しました。醸造技術はスプリングバレー・ブルワリーをすでに成功させていたコープランド ビールの歴史については諸説ありますが、紀元前3000年ごろにはエジプトで、その後、ヨーロッパでも日常的に飲まれるなど、5000年以上前から人々の暮らしの中に根付いていたといわれています。そんなビールが初めて日本の歴史上に登場するのは江戸時代初期、今から400年ほど前のことです。それでもまだ一般的に出回るようなものではなく、日本でビールを楽しむ文化が広まっていったのは明治時代に入ってからのこと。横浜に居留する外国人がビール醸造所を開設し、日本国内での醸造・販売が始まりました。そして文明開化により西洋の食文化が広まっていく中で、ビールの需要も伸びていったのです。しかし庶民には高価で簡単に味わえるものではありませんでした。そのよ甲府柳町の商家「十一屋」 の野口正章が日本人で東日本初の国産ビールを醸造・販売。人類の文明とともに進化して、ビールは人々の暮らしの中に根付いていった。に学び、甲府に職人を派遣してもらうほどの交流も持っていました。原料の大麦は山梨県産を使用。ホップは笹子峠付近に自生していたものを使用しましたが、ビールが腐敗してしまったため、高価なドイツ産を使うこととなりました。また、当時貴重であった瓶は東京や横浜で集め甲府に運びました。国産ビールの醸造はこうした苦難の末にスタートしたのです。東京や横浜への販売を試み、出したビール醸造開業の広告(山梨県立博物館蔵)じゅういち や日本人として東日本で初めて、ビールを醸造・販売した野口正章(個人蔵)バースビール三ツ鱗ビールの文様は、野口家の家紋・三柏と、当時人気のあったイギリス製バースビールの商標・一ツ鱗(三角形の文様)を掛け合わせたとされている。みつうろこしぶたに05

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