山梨てくてくvo.08
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ある東京市場が近くなったという地の利も果樹産業としての発展には有利なものでした。 県土の約8割を森林が占める山梨では、一軒の農家が所有する農地が狭いため、稲作のように広大な面積の土地利用型の農業は不向きです。そのため小さな面積で集約的に行える果樹栽培が農業の中心となっていったのです。 自然条件や地の利だけでなく、人々の英知も果樹産業の繁栄につながりました。山梨県民は勤勉で競争心も強いため向上心があるとされ、優れた指導者にも恵まれてきたのです。例えばブドウ栽培が急激に普及するきっかけとなったのが、明治時代に考案された針金とコンクリート柱製のブドウ棚です。それまで使われていた竹製は毎年補修が必要だったため、耐久性がある針金とコンクリート柱製の棚は画期的でした。また甲州種など山梨の品種に適した剪定方法が生み出されていくなど、時代とともに技術も確立していったのです。 江戸時代に書かれた資料「甲斐叢記」には、山梨の代表的な果物として、ブドウ・ナシ・桃・柿・クリ・リンゴ・ザクロ・ギンナン(またはクルミ)が紹介されています。当時は、まだ果物が珍しく 山梨が「果樹王国」となり得た要因は、日照時間が長く、夏季は昼夜の気温差が大きく、雨は適度に降り、強風の頻度が極めて低いなど、果樹栽培に適した気象条件と、地力のある緩やかな傾斜地や河川流域の水はけの良い土壌に恵まれていたことが挙げられます。さらに、昭和33年、新笹子トンネルが開通したことにより、大消費地で天恵の風土と人々の英知から生まれた「果実郷」先人たちが築いた「果樹王国」の礎に、今、さらなる可能性が広がる貴重だったことから、時の甲府藩主・柳沢吉保が生産を奨励するために、これらを「甲斐八珍果」と名付け、江戸への出荷を勧めたという言い伝えもあります。 明治時代以降、果樹栽培はさらに発展し、スモモやサクランボなども作られるようになり、また海外からの農業技術や品種の導入も進められていきました。しかし第2次世界大戦でいったんその歩みは止まることに。ただ、ブドウ酒に含まれる酒石酸は潜水艦のレーダーに利用されていたため、ブドウ栽培だけは行われていたのです。戦後、養蚕が盛んになると一時は桑の栽培が増えましたが、養蚕の衰退や人々の食生活の洋風化に伴い果物の需要が高まったことで果樹栽培は躍進し、「果樹王国やまなし」の基盤は確固たるものとなっていったのです。 千年を超える歴史があるといわれているブドウ栽培をはじめ、山梨にはたくさんの果樹が、長い歴史の中で育まれてきました。その中、ブドウ栽培農家が集まりブドウ酒を造ったり、柿を干して「枯露柿」を作ったりといった、今でいう農業の6次産業化の先駆けが現れました。 ブドウ・桃・スモモは栽培面積、収穫量とも全国1位を誇り、中でもブドウ・桃は海外でも高い評価を得て、その輸出量は年々増加しています。さらに6次産業化の取り組みもより広がり、生果にとどまらず果物の味わいの楽しみが多様化し、山梨の果樹の可能性は広がりをみせています。FEATURE果樹と歩む歴史かいそうきせん ていこ ろがき04

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