ふれあい特集号vol.62
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19ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ らふ み こや そそまぐちかず えさんじんかい山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第10回展示「近代文学に足跡を残した人々         ─県立文学館開館30周年─」期  間 :10月1日~令和2年3月28日かった姉・はるゑの嫁入りをつづった童謡「花かげ」である。 作曲家の豊田義一が曲を付け、レコードが1932(昭和7)年に発売されると、空前の大ヒットとなり、主計の童謡詩人としての地位を確たるものへと押し上げた。それ以降「さるかにかっせん」「ねぎぼうず」など、数多くの作品がレコード化されることとなった。 「花かげ」など30作品を収めた『ばあやのお里』、そして『麦笛』という2冊の童謡集の出版をはじめ、童話や児童劇などを次々と創作、発表した主計は、1939(昭和14)年には雑誌『詩と美術』の編集兼発行人を務めるようになり、美術批評の面でもその才能を発揮した。その翌年には、テイチクレ 大村主計は、1904(明治37)年、大村金五郎の次男として、東山梨郡諏訪村(現・山梨市)に生まれた。大村家は代々農業を営む傍ら、宿屋を兼業しており、旅回りの役者の定宿になっていて、山間部の農家としては比較的豊かだった。母が病弱だったこともあり、主計は祖母に溺愛されて育った。仲が良い11歳上の兄と3歳上の姉がいたが、とりわけ姉・はるゑとは仲がとても良く、一緒に遊んだり、宿題をしたりした。時には汽車を見に塩山へ出掛けることもあった。 主計は、諏訪村の杣口尋常小学校、室伏高等小学校を卒業後、山梨県立都留臨時教員養成所で学び、1921(大正10)年に小立村(現・富士河口湖町)の小立尋常高等小学校の教員となった。しかし、文学に志を立てた主計は、2年で退職し、東洋大学専門部倫理学東洋文学科に進んだ。 東京での主計は、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された西條八十の門下生となり、サトウハチロー、林芙美子、菊田一夫ら文壇人と交友を結ぶなど、中央詩壇で活動を広げた。また『山梨日日新聞』が毎週特集するサンデー文壇に次々と作品を投稿するなど、詩や童謡を精力的に創作し、雑誌の編集にも携わるようになった。 主計が作詞した童謡「絵日傘」がレコード化されることになった。この時、裏面を埋める曲がないということで、急きょ一晩で書き上げたのが、仲の良コードに文芸部嘱託として入社。36歳にして初めて勤め人となり、戦時中「大東亜戦史」や「日本わらべうた」などを制作した。戦後は、東京タイムズ社創立に参画し、ジャーナリストとして奔走する傍ら専務取締役などの要職を歴任した。 1948(昭和23)年からは、日本音楽著作権協会理事として、当時皆無だった著作権という概念の普及と啓蒙にまい進した。また、晩年に至るまで、山梨出身の文化人団体「山人会」の理事長をはじめ、さまざまな団体の役員も務めた。一方で創作意欲は衰えることなく、晩年は県内10校の校歌を作詞し、コマーシャルソングの草分け的な仕事も担った。 豊かな才能を存分に発揮し、多大なる功績を残した主計は、1980(昭和55)年、75歳の生涯を閉じた。甲州市・向嶽寺にある「花かげの碑」(右)、左は師事した西條八十の歌碑各分野で発揮された豊かな才能小学校の教員を経て大学へ中央詩壇で活躍代表作「花かげ」の誕生

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