ふれあい特集号vol.61
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21ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ らごきょうりっこくしょう柳宗悦が小宮山清三邸で出合った木喰仏3体のうちの1体「弘法大師像」(山梨県立博物館蔵)山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第9回展示「近代甲府を彩った人々─県都甲府500年─」期  間 :~9月27日大きく貢献し、人々から「消防の父」と称された。 政治、消防に限らず事業家としても幅広く活躍した清三は、登山、スポーツ、民芸、絵画、古陶器など、多趣味の人でもあった。1924年(大正13)年、甲府教会で交流のあった朝鮮民芸の研究家・浅川巧が、民芸運動の推進者・柳宗悦を連れて清三の元を訪れた。このとき清三の所有する八代郡古関村 小宮山清三は、1880(明治13)年、中巨摩郡西野村(現・南アルプス市)の長谷部真三の次男として生まれ、13歳のときに、同郡池田村(現・甲府市)の叔父・小宮山民平の養子となった。1901(明治34)年に甲府教会で洗礼を受ける。その後家督を相続してからは、家業や公共事業に専念するようになった。 1910(明治43)年には山梨県初の青年団を結成したのを皮切りに、区長、村会議員を経て、1914(大正3)年には33歳の若さで池田村の村長に就任した。当時商工業の近代化が進む一方で、農村の大半は人力頼みの重労働と税金に苦しんでいた。清三の池田村も例外ではなく、さらに水田地帯でありながら干ばつと出水に悩まされていた。 清三は、「一村一家族主義」(村人全員が一つの家族となって協力する)、「護郷立国」(村を守ることで国を興す)をモットーに、池田村の治水、酪農、果樹栽培、耕地整理に情熱を注ぎ、着実に成果を上げていった。 青年教育には特に熱心に取り組み、自宅を集会場として開放したり、青年団の財源にするため、自分の耕地を提供したりするなど、物心両面の援助を惜しみなく行った。また、著名な青年団運動の実践者を長野県から招き、池田小学校長とすると、2人の指導の下、村の青年たちは農村の近代化や社会奉仕に積極的に参加していった。 村長就任の翌年、清三は池田村消防組頭に就任した。それまで消防は、単なる火消し人足と捉えられており、社会的な待遇が悪かった。これに対して清三は、消防は自治政策の第一歩である、国民が日常生活を託す自治体の尊厳を守る消防の尊重が第一、自治体を守ることが国防教育につながる、といった自身の消防理論を多く著した。 清三は山梨県庁とも積極的に協力して、消防操典の作成などを行い、池田村と山梨県の消防組織をつくり上げた。また消防理論や消防技術の普及を目指し、北海道から九州まで講演行脚を行った。消防への熱意とユーモアの込められた清三の講演には、常に多くの聴衆が集まったという。 さらに清三は大日本消防協会といった消防普及の全国組織の設立にも関わるなど、わが国の消防の近代化にも(現・身延町)出身の僧・木喰五行が全国に彫り残した3体の仏像を目にし、そのほほ笑みに魅了され絶賛する柳に、清三は3体のうちの1体「地蔵菩薩像」を贈呈。その後、本格的に調査研究を始めた柳を全面的に支援するとともに、自らも木喰研究に打ち込んだ。消防講演に訪れた先々で木喰の足跡を調べ、一年間で約350体もの木喰仏を発見した。その後も木喰五行研究会を設立し、研究雑誌を発刊するなど、それまで無名だった木喰仏の魅力を広く世間に知らしめた。 1933(昭和8)年、消防講演を行った後、病に倒れた。享年53歳。県下初の消防葬が舞鶴城公園で執り行われ、一万人余りの参列者に見送られた。後に建てられた頌徳碑には「護郷立国」の文字が刻まれ、清三の功績が今もなお、たたえられている。木喰仏を世に出す「消防の父」誕生池田村の村長として村づくり、人づくりにまい進

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