ふれあい特集号vol59(デジタルブック版)
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17ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ らとう え も んきんろくせいきしゃ学問への思いを貫き、上京山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第8回展示「甲州財閥~近代日本を駆け抜けた人々~」期  間 :~平成31年3月28日山中湖畔にある堀内良平の頌徳碑知の小野金六を説得し、1912(明治45)年、小野を社長とする富士身延鉄道(現在のJR身延線)を創立し、全線開通を目指した。 一方、1918(大正7)年には、甲州財閥系の実業家らと東京市街自動車を創立し、翌年から乗合自動車(現在の都営バス)の営業を始めるなど、東京の交通網の発展に力を注いだ。 堀内良平は、1870(明治3)年、八代郡上黒駒村(現・笛吹市)に、農業を営む堀内藤右衛門の長男として生まれた。おとなしい性格だったが、尋常小学校に入ると、勉学に励み人の嫌がることも進んで引き受け、みんなから慕われた。卒業後は進学のため上京することを望んでいたが、1882(明治15)年に母が急逝したことで、幼い弟たちの世話や家の仕事のため断念し、役場の吏員になる。しかし、学問を志す気持ちは消えることがなく、退職して南八代村(現・笛吹市)の私塾「成器舎」で学び、その後も、早稲田講義録を取り寄せて勉学を続けた。 1892(明治25)年、良平は、末弟の尋常小学校卒業を機に上京を決意。法律事務所で働きながら、3人の弟を各々の希望に沿った学校に進学させるとともに、自らも東京法学院(現在の中央大学)に入学し、学業にいそしんだ。 報知新聞の販売権を得て1897(明治30)年に帰郷した良平は、地元で販売店を開業し、山梨支局長として山梨の出来事を記事にして本社に送った。一方で「育英塾」を開き、村の子どもたちの教育にも精力的に取り組んだ。 また、農地が狭く収入の少ない村の困窮を打開するため、御料林の払い下げ運動を行い、山林を開拓して農地とし、地元農家の収入増につなげた。こうした活動から、良平への信頼は高まり、郡会議員となり、郡会議長に選出された。さらに、上黒駒郵便局長や甲州葡萄酒会社社長を務め、地元の発展に尽力した。 1907(明治40)年、山梨は大水害に見舞われた。その年、県会議員となった良平は、東京の新聞各社に被災地の取材を要請。この報道が国からの水害復旧対策費の獲得につながり、復興に寄与した。 1908(明治41)年、公職を退き上京した良平は、報知新聞経済部の記者となり、取材活動を通して、山梨出身の実業家と交流を深めていった。良平には、彼らの協力を得て、東海道線と中央線を結ぶ鉄道を実現したいという思いがあった。良平は、鉄道事業への造詣が深く、甲州財閥として勢いがあった旧 さらに、鉄道計画の沿線調査から富士山麓の観光地としての価値を見抜いていた良平は、その開発に向けた鉄道建設と別荘地開発を提唱し、富士山麓開発構想を立ち上げた。そして、当時の県知事の後押しもあり、1926(大正15)年に、富士山麓電気鉄道株式会社と富士山麓土地株式会社を創立して、鉄道開発、路線バス事業、別荘地開発、ホテル建設、ゴルフ場開発など、多角的に事業を展開した。1928(昭和3)年には、富士身延鉄道が全線開通し、その翌年には、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)も開通。長年の夢が実現した良平は、1930(昭和5)年から3期にわたり衆議院議員を務めた後、1944(昭和19)年、74年の生涯を閉じた。良平の富士山を世界に拓くという思いは、多くの人々が富士山の価値を享受するきっかけとなった。実業家に転身富士山麓の観光開発に尽力しょう地元の発展に尽力

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