ふれあい特集号vol.57(デジタルブック版)
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にかけて豪雨が再び県内を襲った。前回の大洪水から3年。再度の災害に、いまだ復興途中にあった県民は心身ともに疲弊し、山梨県の財政は困窮を極めた。 1911(明治44)年3月、窮状を知った明治天皇の特別な御沙汰により、県19ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら 塚本定右衛門は、1861(文久元)年、近江国神崎郡川並村(現・滋賀県東近江市)の商人、塚本定次(二代目・定右衛門)の次男として生まれた。幼名は定次郎(後、定治)。定右衛門は当主の名跡である。 定右衛門の祖父・久蔵(初代・定右衛門)は、「善行をし、家業に励め、家を興すことが親孝行の第一だ」という先代の遺言を胸に、19歳の時に五両の金を元手に行商に出た。この頃の近江商人は麻織物や編み笠などを地方に売り歩き、生糸や紅花など、めぼしい商品を仕入れ京都に持ち帰るというスタイルで活動していた。久蔵も、麻織物や当時流行した「小町紅」を仕入れて売り歩いたところ、甲府で紅がよく売れたことから、1812(文化9)年、甲府・柳町に小間物商「紅屋」を創業した。1839(天保10)年には京都に店を出し、取り扱う品も京呉服へと拡大した。さらに、定右衛門の父・定次の代になると、東京・日本橋に本店を開設するなど、「紅屋」は飛躍的に発展していった。定右衛門も父や叔父と共に家業の拡大にいそしみ、1886(明治19)年、26歳で家督を継ぐと、持ち前の商才と先見の明を遺憾なく発揮していった。その後、1889(明治22)年に有限会社塚本商社を設立、1893(明治26)年には塚本合名会社に改組するなど、「塚本」の社業の礎を固めていった。 一方で、塚本家は社会貢献にも積極的だった。とりわけ父・定次は熱心で、滋賀県の学校などの公共施設の建設費や道路改修費を度々寄付した。また、治山治水にも理解が深く、荒廃した山々を憂い、13年間にわたり植林費を寄付し続けた。そうした父の影響を色濃く受けて育った定右衛門にもまた、遺訓「我家の財産は天に委託すべし」の精神が着実に受け継がれていった。 1907(明治40)年、山梨県内は未曽有の大雨に見舞われた。8月22日の早朝から約1週間断続的に降り続いた結果、県内各地で大洪水が発生。人、家畜、田畑、家屋、橋、あらゆるものが流され、壊された。中でも悲惨を極めたのは峡東地方で、河川が氾濫し、汚泥が鉄砲水となって町や人を飲み込んだ。 さらに、追い打ちをかけるように1910(明治43)年、8月6日から11日内の森林面積の約半分に相当する御料地が恩賜林として御下賜された。 小間物商「紅屋」創業の地、山梨の復興のため、先の水害でも見舞金を寄付した定右衛門であったが、恩賜林御下賜の報に感激し、同年8月、治山治水のための植林事業に莫大な寄付をした。 山梨県は、これをもとに、とりわけ甚大な被害をもたらした笛吹川の上流に位置する恩賜林にヒノキ、スギ、カラマツの良苗を3年間にわたって植林した。その後、その地は定右衛門の功績をたたえ「塚本山」と命名され、今も、ヒノキやスギが豊かに茂り、人々の暮らしを守っている。 1922(大正11)年、定右衛門は、創業地である甲府・柳町の紅屋の土地建物を、図書館として使ってほしいと甲府市に寄贈し、1948(昭和23)年、88歳で生涯を閉じた。さだ え も んべに やばくだい近江商人の理念を体現する「塚本家」相次ぐ水害に見舞われた塚本家創業の地、山梨に寄付山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第7回展示「明治を彩った山梨の人々」期  間 : ~9月27日ご か し塚本山のヒノキ林(山梨市)。県の見本林として「やまなしの森林100選」に選ばれている

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